クナシリ・メナシの戦い

小熊英二氏の『〈日本人〉の境界』(新曜社、2001年)の次の言葉を自戒として胸にとどめたい。

この世界を「神」と「悪魔」に分けてしまうことは、必ず神話をつくりだし、憎悪と蔑視の対象を生み出さずにはおかない。そのとき、抵抗の論理だったはずのナショナリズムは、いつしか「有色の帝国」への道を歩き出す。みな自分だけは過ちをしないと信じながら、業が業を生み、悲しみが悲しみをつくる輪から抜け出せない。だがいうまでもなく、現実の人間は神でもなければ、悪魔でもない。国民国家によって設定された境界に沿って神や悪魔の像をつくりだすのは、みずからのアイデンティティの揺らぎから逃れるために、帰依や排除の対象を生み出そうとする我々自身のはずである。

「神」と「悪魔」に二分し、一方のみからの視点で見る、ということをしてしまいがちだ。一方的に正義はなく、一方的に悪もない。皆がよかれと思ってする行動がとてつもない悲劇を招く。眼前の事実では情報が錯綜し、難しい。ある程度事実を解釈が確定している歴史的事実からこの問題を考えたい。
1789年、クナシリとメナシのアイヌが蜂起し、和人(アイヌを除く「日本人」の総称)71人を殺害した。これがクナシリ・メナシの戦いと呼ばれるものである。以下、史実だけを述べる。
クナシリ場所の惣乙名(惣長人、惣オッテナなどがあるが、惣乙名に統一する)サンキチが急死した。和人が差し入れた薬を服用した直後に死去したこともあって毒殺説がささやかれ、疑心暗鬼になっていた、という事情もある。病身のサンキチに代わって事実上クナシリ場所を収めていた脇乙名ツキノエが、アッケシ場所の惣乙名で甥のイコトイがエトロフ島にラッコの皮を入手するために赴いている留守を狙ってサンキチの弟のマメキリとツキノエの長子のセツハヤフが主導して和人への暴動を主導した。ノッカマプの惣乙名のションコは183人の部隊を組織して暴動地域の和人救出活動に動き、急を聞いて帰ってきたツキノエやイコトイもアイヌの暴動の沈静化に動いたため、松前藩の鎮圧軍が来る前に暴動は収束した。松前藩の番頭新井田孫三郎は暴動に関わったアイヌの首謀者37名を処刑し、協力したアイヌの乙名たちを松前藩に招待し、藩主お目見えを行った。
少し補足を加えておくと、アイヌはコタンと呼ばれる行政単位を持ち、そのトップが乙名である。広範囲のコタンを統合した「場所」を統合する惣乙名と補佐する脇乙名が置かれていた。概ね世襲制であったようで、例えばアッケシのイコトイが30歳にも関わらずアッケシの惣大人であったのは、父のカモイボンデンの跡を継いだ、ということがある。さらに母親はツキノエの妹のチキリアシカイで、クナシリとアッケシは惣乙名や脇乙名クラスの婚姻関係で結ばれていたのである。ちなみにウタレというのは最上徳内が書き残している「大身の乙名なとハ、ウタレとて古代相伝の家来大勢あり」と、「秩序を維持する機能を持つ紛争解決手段の通用しない、私的な支配ー服従の関係」(岩崎奈緒子『日本近世のアイヌ社会』校倉書房、1998年)を持つ人々である。
これだけを取り上げて「クナシリ・メナシの蜂起」とは「クナシリ・メナシで起きた和人虐殺である!」という人はいないだろう。それどころか「一部のアイヌ過激派が和人に虐殺を行った」とすら言わないだろう。これは当時の江戸幕府松前藩も同じである。
事態を重くみた江戸幕府松前藩と当時クナシリ場所とメナシ場所を請け負っていた飛騨屋を取り調べ、原因糾明を行った。その経緯は『蝦夷地一件』として纏められている。
江戸幕府が問題視したのは、なぜアイヌが蜂起したのか、ということである。江戸幕府はその背景に松前藩の失政があるのではないか、とみていた。もし松前藩の失政が原因ならば松前藩の改易も視野に入れなければならない。当時江戸幕府内部にも蝦夷地問題は大きな問題であった。ツキノエ・イコトイらがロシアと関係を持っていたことは、田沼意次政権の時の調査で明らかになっていた。田沼意次のあと、幕府の実権を握った松平定信蝦夷地を緩衝地帯として日本に編入することに消極的であった。一方本多忠壽は蝦夷地を日本に併合してロシアと直接対峙することを主張していた。従って定信は松前藩を対アイヌ交渉の窓口として温存することを考えていた。一方、忠壽は蝦夷地を日本に併合した後は、直接ロシアと対峙しなければならないのであり、その場合松前藩を転封させなければならない。幕閣も一枚岩ではなかった。結局この段階では定信がヘゲモニーを掌握し、対アイヌ交渉を松前藩に委ねるという方向性になった。松前藩を残す、となると、アイヌ蜂起の元凶とされたのが飛騨屋である。結局飛騨屋は事件の責任を負わされて全ての場所を取り上げられる。
この事件は単純にアイヌの暴動と見るのが正しくはないのと同様に飛騨屋の暴虐だけで解釈できるものでもない。
飛騨屋は飛騨国下呂の木材商人で、従来丸太で運ばれていた木を規格の大きさの木材として販売する、各店を独立採算制にする、賃金を前渡しにして杣人の待遇を改善する、地元や近在の人を多く雇用して利益を地元に還元する、ということを行い、蝦夷地の経営で台頭してきた。特に飢饉で田畑を失い、食いぶちを失った大畑の人々を多く雇用し、彼らの職と食を確保した。
飛騨屋の経営が転換するのは1766年、大畑店の支配人が店の金を横領し、解雇される。解雇された元支配人は松前藩勘定奉行と結んで飛騨屋の請負山を取り上げようとし、結局飛騨屋は材木事業から撤退し、松前藩への債権8138両の内、2783両を松前藩に献納する、という形で債権放棄し、残り5400両で新たにクナシリ場所など4場所を請け負うことになり、漁業に転換した。このころ鰊〆粕が肥料として多くの需要があった。しかしクナシリ場所は事実上実権を掌握していたツキノエが9年にわたり抵抗し、飛騨屋の経営は圧迫された。この大変な中、18歳の若さで飛騨屋の当主になったのが4代目久兵衛益郷であった。
1783年ようやく交渉の結果ツキノエは飛騨屋との交易を認めたが、1786年、幕府は蝦夷地併合の可能性を探るためにクナシリ場所を停止し、直接の交易に乗り出した。これを直捌制というが、定信と忠壽の主導権争いの中で翌年には返却され、事業を立て直すために大網の導入などの大規模な漁業経営を開始する。その中で1789年にアイヌの不満が暴発し、飛騨屋の従業員が71名殺害される、という「クナシリ・メナシの戦い」が起こったのだ。
これは当時の言葉では「寛政蝦夷蜂起」であって、「一揆」とか「暴動」とは記されていない。幕閣には少なくとも何が蝦夷地で起こっているのかに関する情報があったのだ。アイヌ松前藩への印象はかなり悪化していて、後に和人救出に動くションコも「松前藩の者は皆悪人」と幕吏にこぼしている。その一方でツキノエやションコの交易相手としてロシアが存在し、彼らが事実上日本とロシアの関係を取り持っていたことも幕府は熟知していた。田沼意次の時代に集積されたこれらの情報は松平定信も当然知る所であり、定信政権は原因糾明にあたりアイヌの「暴動」の責任は和人にある、と決めてかかっていた。問題はその責任の配分をどうするか、であり、これは忠壽と定信の綱引きで決定する。蝦夷地緩衝地論を唱える定信にとっては松前藩に責任をかぶせたくない。従来通り松前藩を通じてアイヌとの関係を取り持ちたい、と考える定信はいきおい事件の責任を飛騨屋にある、と考える。一方忠壽はこの事件を梃子にして松前藩を改易処分にし、蝦夷地を一気に幕府直轄地にしてロシアと直接対峙する、という構想を持っていた。最終的には定信の路線が通り、飛騨屋は全ての場所を失う。飛騨屋は69923両にも及ぶ損害を出し、松前藩への賠償請求も収めた運上金2000両と松前藩に対する債権9276両の内の70両のみを受け取って蝦夷地から撤退する。益郷27歳の時であった。その後益郷は下呂で材木を商い、下呂の庄屋を務めるなどしてこつこつと8000両の債務を返済し。63歳で死去する。
飛騨屋の立場からこの事件を概観すると概ね以上のようになる。飛騨屋からの見方で私が何を言いたいのかと言えば、徳川日本の矛盾から目をそらす偽善的な歴史像である。
今、徳川日本が自給自足のエコ大国で、意外なほど民主的な一種の理想郷であるかのような見方が喧伝されている。確かにその歴史像は明治維新によって成立した大日本帝国の歴史像を相対化する働きをしたことは事実だ。従来の近世史像は、江戸幕府によって作られた封建制度によって多くの庶民は苦しめられ、それを解放したのが大日本帝国である、というものだった。大日本帝国は絶対主義国家か、それともブルジョワ国家なのかという議論はさておき、明治時代は江戸時代よりもマシである、というのが基本的な歴史認識だったのだ。それを相対化して大日本帝国は徳川日本が持っていた豊かな可能性をつぶして成立した国家、という形の歴史像はある意味魅力的でもある。しかし言うまでもなく徳川日本は完全な自給自足国家ではない。確かに「日本」の内部では豊かな環境と意外なほどの民主的な制度によって多くの人々が快適な生活を享受していた、ということは言えよう。しかしその生活はアイヌの犠牲の上に、琉球の犠牲の上に成り立っていたことは間違っても見過ごされてはならない。そしてそういう徳川日本の矛盾を引き受けた「汚れ役」が飛騨屋だったのだ。飛騨屋一人に「汚れ役」を押し付け、アイヌの犠牲の上にあぐらをかいて得られた徳川日本の「平和」パクストクガワーナの歴史像は大いなる偽善の歴史像である。