先住民族の歴史

アイヌ先住民族か。最近まで日本国政府アイヌ少数民族としてすら認めていなかった。アイヌは同化されて完全に日本人になった、という主張だったのだ。アイヌを含んだ単一民族論というのは、アイヌが「日本人」に完全に同化された、という理解である。同化政策は19世紀に始まり、明治維新以降は積極的に大々的に行われた。しかし注意すべき点は、完全に「日本人」にするのではなく、あくまでも劣等性を刻印した上での「同化」である。アイヌに対する法的差別の根拠となった「北海道旧土人保護法」が1997年まで存続したことに「日本」のマジョリティの意識が端的に現れているだろう。「アイヌ新法」の制定は一定の進歩ではあっても、先住権にはほど遠い。あくまでも少数民族として認められたに過ぎない。
いわゆる「アイヌ新法」の問題点とは何か。この法の正式名称は「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」という。ここに現状のアイヌの置かれた問題が集約している。現在アイヌが認められている権利は「文化の振興」と「伝統等に関する知識の普及及び啓発」に限定されている。何が抜けているのか。それは「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(「University of Minnesota Japanese Page」)の第6部に表されている次の条文に定められた諸権利である。(参考として次も挙げておく。「NPJ 9月14日の国連総会での世界先住民族の権利についての論考」)

第25条
先住民族は、彼(女)らが伝統的に領有もしくは他の方法で占有または使用してきた土地、領土、水域および沿岸海域、その他の資源との彼(女)らの独特な精神的および物質的関係を維持しかつ強化し、そしてこの点における未来の世代に対する彼(女)らの責任を守る権利を有する。
第27条
先住民族は、彼(女)らが伝統的に領有もしくは他の方法で占有または使用してきて、彼(女)らの自由でかつ情報に基づく合意なしに没収、占有、使用されたり、または損害を受けたりした土地、領土および資源の返還に対する権 利を有する。これが可能でない場合、彼(女)らは、公正かつ公平な補償に対する権利を有する。当該民族による他の内容での自由な合意がなければ、補償は、質、規模および法的地位において同等の土地、領土および資源の形を取ることとする。
第28条 
先住民族は、彼(女)らの土地、領土および資源の総合的環境と生産能力の保全、復元および保護に対して、並びに自家からおよび国際協力を通じてのこの目的のための援助に対して権利を有する。当該民族による他の内容での自由な合意がなければ、先住民族の土地および領土において軍事活動を行ってはならない。
国家は、先住民族の土地および領土において有害物質のいかなる貯蔵 も廃棄も行われないことを確実にするための効果的な措置を取ることとする。
国家はまた、そのような物質によって影響を受ける民族によって作成されかつ実行される、先住民族の健康を監視し、維持し、そして回復するための施策が適切に実行されることを、必要に応じて、確実にするための効果的な措置も取ることとする。
第30条
先住民族は、特に、鉱物、水または他の資源の開発、利用または採掘に関連して、彼(女)らの土地、領土および他の資源に影響を及ぼすいかなるプロジェクト(計画)の承認にも先だち、国家が彼(女)らの自由でかつ情報に基づく合意を得ることを必須要件とする権利を含めて、彼(女)らの土地、領土および他の資源の開発または使用のための優先事項と戦略を決定しかつ展開する権利を有する。当該先住民族との合意に準じて、公正かつ公平な補償が、実行されるいかなるそのような活動および措置に対しても、環境的、経済的、社会的、文化的または精神的な悪影響を軽減するために提供されることとする。

先住民族である、ということは、自らが伝統的に領有してきた土地、資源などについての権利を有する、ということである。この国連宣言に日本は賛成した。その背景には日本はアイヌ先住民族とは見なしていない、ということがある。歴史的にみれば、アイヌ文化を抹殺する動きは最近まで法的根拠を持ってきたこと、現在でもアイヌの先住権は侵害され続けている、ということ、を自覚する必要があるだろう。
スチュアート・ヘンリ氏は『別冊宝島 アイヌの本』の「『民族意識』も『伝統』もフィクションである」において次のように述べる。

知らないからとか、気がつかなかったからとか、あるいは話題に上らないからそのままにしていることは、「知らぬが仏」ではなくして、行動しないことも意思表示のひとつだということです。それはマイノリティをこのまま押さえつける現状を追認するだけ
(中略)
私たち研究者の役割は、事例を数多く知っていて、それに理論的な枠組みを与える訓練を受けてきたわけですから、こういう情報をもっと出す必要がある。もっと出して選択肢を増やさなければ。われわれに出来ることは、新しい情報、ほかの考え方を、多くの人に「食える」かたちにすることなんです。