場所請負制へ

エスノサイド(民族抹殺)は何も暴力によってのみ行われるのではない。我々はどうしても暴力による弾圧に目を向けがちである。しかし我々の目に触れる「暴力」は抑圧された側の「暴発」に対する「制圧」という形で現れている。抑圧者側に立つと、暴力の非対称性に目が向けられ、弱者の「抵抗運動」に強者が「武力弾圧」を行なったことが問題になり、抑圧者側に立つと「抵抗運動」ではなく、罪のない人に向けられた過激派の暴力になってしまう。いずれの見方も浅薄きわまりない。エスノサイドは暴力によってのみ行われるのではない。むしろ深刻なのは、暴力によって行われるのではなく、「同化」や「経済進出」の形をとって行われるものである。暴力によるエスノサイドはその突出した一現象に過ぎない。
17世紀のアイヌモシリ(アイヌの大地という意味で今の北海道、南千島列島、サハリン南部)においては和人の進出が相次ぎ、鮭の猟場が荒らされるという問題と、鮭と米の交換比率がアイヌに不利になっていくという問題がアイヌの憤懣となり、それがシャクシャイン戦争という形で現れたのである。シャクシャイン戦争後、松前藩アイヌとの交渉の末にアイヌの土地を保護するために和人の立ち入りを制限し、一商場に夏船一艘という限定をかけるとともに、鮭と米の交換比率を固定した。
しばらく平穏に進んだが、18世紀に入ると本州から消費物資が流入する。元禄バブルの到来である。元禄バブルの進行に伴い、藩の支出は増大し、それを借金で賄うようになっていった。松前藩の財政は逼迫していった。五代藩主松前矩広死去後、後継者がいなかった松前藩シャクシャイン戦争の時に鎮圧の功のあった旗本松前泰広の孫の邦広を迎え、6代藩主とした。邦広は財政建て直しを優先し、アイヌモシリへの和人進出を本格化させる。砂金採掘の再開、蝦夷松伐採許可や、鰊漁船の立ち入り許可など、和人商人の経済活動を拡大させる。
日本では水産物の需要が拡大する。農業生産に必要な肥料として鰊〆粕、庶民の安価なタンパク源としての鮭塩引、ダシとしての昆布、建築材としての蝦夷松。特に材木は厳しい管理が日本の山では行われていたので、大量に切り出すには幕府の規制の及ばない「異域」であるアイヌモシリ=蝦夷地の材木は好都合だった。
生産の増大に伴い、従来交易の場であった「商場」は資源採集の場である「場所」に転換し、その「場所」を商人に請け負わせる「場所請負制」となる。松前藩は商人に対する大量の債務を抱えており、場所の経営を請け負わせることで債務返済に充てていた。結果、アイヌの交渉相手は起請文に拘束される松前藩ではなく、和人商人になる。和人商人と直接交渉するということは、日本における経済動向にアイヌも巻き込まれる、ということになる。しかし松前藩の下で堅持されていた原則があった。「夷次第」と「自分稼」という原則である。「夷次第」とは、アイヌを独立した主権を持つものとして扱う、という原則である。そして「自分稼」とはアイヌの経済的自立を妨げない、ということである。そのため松前藩は和人のアイヌモシリへの定住を許可しなかったし、定住させないために女性の立ち入りを全面的に禁止していた。さらには大網を使って大量に漁獲することも禁じていた。漁具を規制することでアイヌの小規模経営漁業を保護したのである。最低限押さえなければならないのは、松前藩の法はアイヌには及ばない、ということである。あくまでもアイヌモシリに立ち入る和人を規制するということだったのだ。松前藩は日本の風俗や日本の言語をアイヌには決して押し付けなかった。アイヌとの交渉はアイヌ語で行なった。蝦夷通詞というアイヌ語の通訳が存在し、彼らがアイヌとの交渉の最前線に立ったのである。
政治的には自立しており、なおかつ建前上は日本から経済的に自立していたはずのアイヌモシリは、しかし日本における経済発展を支える形で日本の経済に組み込まれてしまう。場所経営が大規模化し、債務にしばられた松前藩は債務返済のために規制を緩和する。乱獲による資源枯渇、〆粕製造のための森林伐採に伴う環境破壊も深刻であった。エコロジー大国徳川日本を支えたアイヌモシリは疲弊しきっていた。「自分稼」の原則は崩れ去り、アイヌは下層労働者として和人の経済活動を支える存在になってしまっていた。和人の経済活動に組み込まれることによって生活が豊かになるアイヌが出る一方で、和人による環境破壊で生活が破綻するアイヌもいた。また大量の和人が進出してくる中でアイヌとの文化摩擦も深刻化していった。経済的に従属させられていくアイヌの不満が爆発したのがクナシリ・メナシの戦いだったのである。しかしこれがアイヌを徹底的に破壊したのではなかった。アイヌの破壊は江戸幕府の「介抱」政策によって決定的なものとなる。次回はそれを検討したい。