アイヌモシリの「日本」への併合

エスノサイドは大量虐殺のみによって遂行されるのではない。まず先住民族の居住しているところに大量の人口を流入させ、先住民族少数民族にする。これだけで先住民族アイデンティティは危機に陥る。多数派になった段階で経済活動における規制緩和を行い、多数派による経済掌握を行い、少数民族を多数民族に従属させる。そして究極には文化的に同化させ、民族のアイデンティティを消滅させる。これがエスノサイドの基本である。その中で危機を感じた少数民族による「暴動」があり、それを「武力制圧」する、という局面は存在するが、それはあくまでも突出した側面に過ぎない。そこに目を奪われてはいけない。
現在チベットにおける「武力弾圧」が問題になっている。しかしそれはある意味チベット過激派が暴発した、という側面は確かにあるだろう。突出した武力衝突のみに目を奪われていては本質が見失われる。アイヌの歴史を検討する際にも同じことが言える。武力衝突に目を奪われて、アイヌエスノサイドを武力による大虐殺が行われていた、と記述する歴史叙述も存在する。しかしそれを主張しすぎると「過去の話」「現在眼前で行われている武力弾圧と温度差があるのは当たり前」という主張に対し、無力すぎる。アイヌ問題を扱う論者が「温度差言説」に無力なのは、武力衝突のみが弾圧と勘違いしているからに他ならない。
クナシリ・メナシの戦いの後、松前藩と飛騨屋と幕府はそれぞれの思惑を持って事後処理に当たった。松前藩は事件の責任を全面的に飛騨屋のアイヌへの暴虐に求めた。飛騨屋は松前藩の請負を継続したい、という思惑もあってアイヌの「欲心」に求めた。幕府は最終的に飛騨屋の責任をうやむやにしながら飛騨屋の場所を没収という処分を行った。しかしその過程で松前藩の失政が明るみに出てきた。松前藩の財政は破綻直前で、商人に完全に丸投げしていたことが幕閣の知る所となったのである。悪徳商人と癒着してアイヌから搾取する松前藩という印象が幕府の抱いた松前藩像である。
幕府内部にはそのような松前藩に対する不信感が醸成されていった。1792年にラクスマンがネモロに来航したことで緊張は一気に高まる。当時の幕府の政権を掌握していた老中首座松平定信ラクスマンに来航許可証を与え、ロシア交易の可能性に含みを持たせた。しかし翌年には定信は失脚し、定信が推進していた蝦夷地緩衝地論は頓挫し、蝦夷地直轄論者であった本多忠壽が新たに実権を掌握する。
1799年ついに東蝦夷地が併合され、アイヌモシリは「日本」に併合されることとなった。対ロシア最前線である東蝦夷地においては場所請負制を廃止し、幕府自ら対アイヌ交渉を行なう直捌制へと移行する。これを蝦夷地勤番制という。1802年には函館奉行が設置され、目付の羽太正養が函館奉行に就任する。
1804年レザノフが来航、ラクスマンに渡された通交許可証を持ってきたが、幕府はそれを拒否、メンツを潰されたレザノフは部下のフヴォストフに報復を指示し、1807年にフヴォストフはエトロフ島を襲撃する。驚いた幕閣は正養を罷免し、ロシアに対し強硬姿勢で臨むことに決す。西蝦夷地も併合し、ここにアイヌモシリは完全に「日本」の中に編入されることとなった。
ロシア軍艦ディアナ号艦長のゴロウニン拘留をめぐる日露の対立と交渉を通じた解決によって対ロシア関係の緊張は緩和し、1821年には蝦夷地は松前藩に返却されることとなった。しかし条件として全島を松前藩直轄とすることが条件であった。もはやアイヌの大地アイヌモシリではなく、徳川日本の辺境に位置づけられる「蝦夷地」となったのである。
蝦夷地勤番制の基本は幕吏・藩吏が蝦夷地勤番として派遣され「介抱」=一種の保護政策に当たる、というものである。東蝦夷地には会所、西蝦夷地には運上屋がおかれ、場所経営と支配の拠点として機能した。さらにアイヌ社会も再編され、乙名・小使・土産取に組織され、末端の支配を担うことになった。さらに日本語・日本風俗が強制され、創氏改名も行われる。神社や寺が建てられ、改宗も強制される。北海道におけるこの体験は、北海道帝国大学における開拓植民政策に活かされ、所謂拓殖政策として大日本帝国の重要な学問分野となるのである。
幕府がどのようなアイヌ観を以て「介抱」に当たったかについては函館奉行を務めた羽太正養の『休明光記』に詳しい。松前藩については暴虐でアイヌを衰微させた、と指弾している。特にやり玉に上げられているのが、松前藩によってアイヌの風俗を強制されてきた、という点である。蓑や笠、わらじを用いることを禁止され、日本語も禁止されてきた、という認識であった。ここにはアイヌを独自の文化を持つ異民族と見る視点は全くない。正養はアイヌ文化を遅れたものとし、アイヌに対する「夷次第」の原則を後進性の押し付けと捉えたのである。アイヌに日本語を禁じたことによりアイヌ無文字社会にとどめられ、場所請負商人にだまされる、とも考えていた。しかし実際にはクナシリ・メナシの戦いで松前藩の番頭新井田孫三郎が頼った通訳はネモロアイヌであった。従って松前藩アイヌに対して日本語の習得を禁じた、ということはない。ウルップアイヌのアレクセイ・マクシモヴィッチはロシア語と日本語を操り、ゴロウニンの通訳を務め、ゴロウニン解放後は一緒にロシアに渡り、皇帝アレクサンドル一世より短剣を賜与され、終身年金を受けとる身分となった。もともと北アジアの諸民族やロシアや清と日本との中継貿易で身を立てていたアイヌが語学に堪能でないわけはないのである。ただ北アジア諸民族は日条言語を書記化していないだけで、彼らが識字率0%ということを意味しない。
1813年には直捌制は幕府の出費が大きくつり合わないために、場所請負制が復活する。しかしアイヌモシリが日本に編入され、アイヌ社会が日本の辺境社会として再編された後の場所請負制はそれまでの場所請負制とは全く異なっていた。アイヌ社会は弱体化し、自立性を失って、アイヌモシリは蝦夷地となってアイヌ自身も少数者になりはじめていた。その中でアイヌは下層労働者として位置づけられ、さらに魚肥生産に都合のよいようにコタンという彼らの行政単位は解体され、再編されていった。
1840年のアヘン戦争を契機に松前藩の能力に疑問が呈され、1855年に再び幕領となる。蝦夷地「開拓」政策が行われ、さらに場所への永住が許可され、本格的に和人の植民政策が始められる。大網の使用制限は撤廃され、アイヌは漁業から排除されつつあった。さらに生産力の高い場所への労働力を集中させることを目的としてアイヌ強制移住が行われ、アイヌの人口は急速に減少しつつあった。松浦武四郎が書き残したアイヌの悲惨な実体は、この蝦夷地勤番制下において行われた「介抱」=アイヌ「保護」のもとで進行した事態である。しかしそれを松前藩に全ての責任を着せることによって、アイヌ同化政策は近代以降も継続され、アイヌ民族抹殺政策として機能することになる。アイヌ民族に対するエスノサイドは松前藩よりも江戸幕府により大きな原因があり、江戸幕府の政策を継承した明治以降の大日本帝国、そして今の日本国にも責任はある。江戸時代の農業生産の発展を支えたのが蝦夷地産の鰊〆粕であったことを考えれば、徳川日本の「エコ大国」を無条件で称賛する気にはなれない。
アイヌに対するエスノサイドは暴力によって行われたのではなかった。主力となったのは同化政策である。そしてそれは遠い過去の問題ではない。わずか11年前まで同化を強制する「北海道旧土人保護法」が存在し、「旧土人」として同化の対象にされてきたのである。