北海道旧土人保護法成立の経緯

エスノサイドは何も武力のみで成立するのではない。一番効果的なエスノサイドは同化政策である。言語を奪い、文化を抹殺する。その時に完全に同化するのではなく、その文化に「未開」という劣等性を刻印したうえであたかも博物館か何かに残すような形で「保存」し「保護」する。チベット問題で中国の愛国ブロガーが書き残す「行儀良くしていれば、文化と恩恵を守ってやるのに」「お行儀が悪くても、それでも文化は面倒を見てやる。博物館に収めてね」というような言葉は、その典型例である。あくまでも「保護」される対象として少数民族を見なす。これがもっとも効果的な文化的虐殺である。我々がなさねばならないのはこのような文化的虐殺を否定することである。少数民族の文化を「劣等性の刻印」から解放することである。
アイヌ問題を象徴する法律の代表的なものである北海道旧土人保護法に関してmuffdiving氏が非常に当を得たまとめをしてくださっている(「http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20080325/1206463167#c1206756344」)。この法律が制定された歴史的経緯を少しみていこう。
アイヌは13世紀の歴史書には「骨嵬」、15世紀には「苦夷」という表記で歴史書に登場する。アイヌ北アジア地域における他称である「クイ」の当て字だろう。16世紀末には「アイノ」「アイヌ」と自称していたことが史料にも見える。1878年にそれまで「アイヌ」「蝦夷」と呼称されてきたアイヌを「旧土人」に統一した。その前年には北海道地券発行条例によってアイヌモシリであった土地は全て官有地に編入され、アイヌは土地を全て奪われていた。「旧土人」に位置づけられたアイヌには鮭漁や鹿猟などが制限され、さらに「日本人」となるように風俗も強制された。
官有地に編入された土地の処分については1897年に北海道国有未開発地処分法が発布され、和人への土地払い下げ条件が緩和され、北海道への移住者が増加する。その中でアイヌは少数者になり、さらに「開拓」の邪魔になるアイヌについては強制移住も行われた。
少数者になったアイヌを「保護」するために作られたのが北海道旧土人保護法である。主要な内容はmuffdiving氏の「土地をタダでやるよ、けど農地以外に使えないし、15年経っても農地として使えなきゃ没収するよ」というまとめに付け加えるところはない。あえて付け加えると、北海道国有未開発地処分法に基づく払い下げによって農業に適した土地はほとんど和人の入植者に回っていて、アイヌに残された土地は農業に不適なところであった、ということも指摘しておこう。1916年に行われた調査では歩留まり率は50%に留まり、その土地は収公されている。
このような法律が出された背景についても述べておく必要があるだろう。単なる「時代背景」で済まされる問題ではないことが明らかになるだろう。
この法律の原型は憲政会代議士加藤政之助の出した「北海道土人保護法案」である。加藤は北海道庁長官北垣国道から依頼されて北海道拓殖事業に乗り出したが、その過程でアイヌの「保護」の必要性を痛感する。加藤はドーズ法(「ドーズ法 - Wikipedia」)を参考にしていた。かつてマサチューセッツ州居留地を見学した際の体験が下敷きになっている。加藤の「保護」とはアイヌの文化や先住の権利を「保護」するものではなく、「其人種を続け」るためのものである。
しかし加藤の法案は廃案になる。この法案が改めて政府から「北海道旧土人保護法」として1899年に出された背景には、いわゆる条約改正の問題が関係していた。1894年に締結された日英通商航海条約において治外法権が撤廃されたが、同時に従来制限されていた外国人の居住・旅行・外出を自由化することになった。
政府が神経をとがらせた一つがおそらくはイギリス聖公会宣教師ジョン・バチェラーによるアイヌへの布教だったろうと思われる。バチェラーはアイヌが差別を受けている現状を知り、1888年に愛隣学校を設立し、アイヌ語の読み書きをローマ字で教え、アイヌのために病院を設立するなどの社会事業を行なっていた。バチェラーは毀誉褒貶の激しい人物であるようで、「アイヌの父」と言われる一方、「アイヌを食い物にした」という見方もある。ただ少なくともバチェラーの活動は政府にとっては警戒を要するものであったようだ。
1899年に北海道旧土人保護法が出されたが、その内実は加藤の出した法案とは異なるポイントがあった。加藤はアイヌ児童を一般の学校へ就学させる方針をとっていた。しかし政府は「土人学校」を作り、アイヌの子女をそこに通わせる方針をとった。修業年限は当時の小学校が4年であったのに対し3年に短縮され、さらに教科数も削減されていた。理科・歴史・地理・図画は教えないという方針である。逆に男子には農業、女子には裁縫という科目が設置された。守るべき徳目に「清潔」「秩序」が挙げられたのも、アイヌに対する「未開」という偏見を植え付け、アイヌ文化に劣等性を刻印することとなった。白老や近文の「土人学校」は観光名所となり、アイヌ文化に「劣等性」を強く刻印することとなった。いわゆる「土人学校」はアイヌへの日本語普及とともにその役割を終え、1937年の北海道旧土人保護法改正によって消滅した。
しかしアイヌ文化に劣等性を刻印する行為は現在でも進行している。アイヌ文化を「未開」と位置づける思考もそうだろうが、深刻なのはアイヌ文化を「純朴」と肯定的に捉えながら劣等性を刻印する行為である。「地獄への道は善意で敷き詰められている」のだ。善意の差別者はやっかいである。
知らないから、という態度がしばしば問題にされる。しかし「無知」であること、「無関心」であることを責めるのはフェアではない。「無知」だからだめで、「知識があるから偉い」わけでは無論ない。無知であることの無自覚が一番問題である。だから「知らなかった」人々よりも、むしろ危険なのは私のような「生半可通」というか「知っているつもり」の人間であることを自戒したい。それと私自身に勉強する機会を与えてくださったmuffdiving氏とその記事にコメントを寄せた方々、ブクマ(「はてなブックマーク - チベット問題との温度差をすげえ感じた - NC-15」)の方々にお礼申し上げたい。