松前の原像

松前氏の系譜伝承はもっぱら「武田信広」に収斂する。彼らの伝説に忠実に従えば、若狭の守護武田信栄の遺児の信広が北海道に渡って蠣崎季繁の客将となって、コシャマイン戦争で活躍して蠣崎季繁の婿養子となって蠣崎家を継承したが、季繁の娘は下国政季の実の娘で季繁のもとに養女にやってきた女性であるから、実は下国政季の婿でもある、ということである。その後蠣崎氏はアイヌと時にはだまし討ちを交えながらアイヌを次第に追い出していき、1550年に瀬棚のハシタイン、知内のチコモタインと和睦を結び、両者に「夷役」を配分することになった。彼らはそれを「神意得意」と呼んで珍重した。
ここに書かれたことを真に受けてはいけない。蠣崎氏は剛毅だが朴訥なアイヌ戦士をだまし討ちにする卑怯な和人だ、蠣崎氏の活動はアイヌモシリに対する侵略行為だ、というのは、おそらくは嘘である。なぜ嘘と言えるのかといえば、コシャマイン戦争の時の館主(たてぬし)と呼ばれる有力者の分布は今日の函館空港付近の志海苔館から、上ノ国町の勝山館に至っているが、後にチコモタインの勢力地となる知内ははるかに松前に近い。さらに蠣崎氏発祥の地と考えられる勝山館付近も和人地には入っていない。そこはセタナイのハシタインの勢力下に入っているのである。「夷役」の配分もあくまでも蠣崎氏がハシタインとチコモタインに支払っているのである。蠣崎氏が豊臣秀吉から下された朱印状や徳川家康から下された黒印状も、アイヌが蠣崎氏の支配下である、という認識は存在しない。蠣崎氏はアイヌに勝利してはいないのだ。さらに重要なのは、蠣崎氏の「卑怯なだまし討ち」が記録されているのはあくまでも松前藩が書き記した『新羅之記録』である、ということだ。松前藩アイヌに対するだまし討ちの歴史を執拗に書き連ねるのは、アイヌに対する陰惨な侵略の歴史を書き連ねたのではない。アイヌと戦って成立して来た、という自己認識を誇っているのである。
新羅之記録』に頼らずに松前氏の台頭を記すとどのようになるだろうか。まだ「日本」に組み入れられる前の松前氏の自己認識をみていきたい。その際に参考になるのが西洋人による松前氏とアイヌの姿である。
16世紀、実際にイエズス会の宣教師が二人、アイヌモシリに入っていた。一人目はシチリア島出身の宣教師ジェロニモ・デ・アンジェリスであり、もう一人はポルトガル出身のディオゴ・カルワーリュである。アンジェリスは1618年と1621年に、カルワーリュは1620年と1622年にそれぞれアイヌモシリに入っている。彼らがアイヌモシリ入りしたのには、前述のイグナシオ・モレーラの報告が大きいだろう。モレーラは朝鮮出兵のために名護屋にいた豊臣秀吉と面会しているが、その時名護屋には松前慶広もいた。おそらくはモレーラは慶広からアイヌモシリの情報を得たのだろう。モレーラによれば日本人が「イェゾ」と呼ぶ地名は「アイノモショリ」と呼ばれていた。つまりこのころには既に「アイヌモシリ」という言い方が名護屋にいた宣教師にも伝わっていたのである。そしてアイノモショリと接してレプウンクルがある、と記録している。レプウンクルとはアイヌ語で「沖の人」という意味であり、アイヌユーカラにも登場してくる勢力である。アイヌユーカラはレプウンクルとアイヌとの戦いの叙事詩であり、彼らと戦う英雄ポンヤウンペが主人公である。そこでは和人は「シサム」=「良き隣人」と認識されている。シサムがなまってシャモとなるのである。モレーラが記録するレプウンクルは朝鮮や韃靼と接し、韃靼の影響が大きいとみられている。レプウンクルとはサハリンからアムールランドに広がる北アジア交易ネットワークの構成集団であろう。彼らは松前氏と面会し、松前氏の目からみたアイヌモシリを記録している。
そして1643年にはオランダの東インド会社のメルテン・ゲリッツセン・フリースがカストリカム号を率いてアイヌモシリの調査に訪れている。彼らは北海道を超えてエトロフ・ウルップにやって来る。そして両島の領有を宣言している。フリースの特徴はアッケシのノイアサックというアイヌの首長と交渉しており、オランダ人の目にアイヌがどのように映っていたのかということがよくわかる。
彼らがどのように松前氏を記録していたか、をみると興味深い事実が一つ浮かび上がる。それは松前氏は「松前殿」と呼ばれているのであるが、実は「マツマエ」ではなく、「マツマイ」とか「マツメイ」とか呼ばれている点である。オランダ語ポルトガル語の違いが「マツメイ」と「マツマイ」との違いとなっているのかもしれないが、共通しているのは、最後の音が「イ」である点である。「マツマエ」と「マツマイ」では意味合いが全く違う。そもそも「松前」というのは門前に大きな松があったから「松前」としたはずだ。しかし「マツマイ」と発音されていたとすると事情は変わってくる。そこで十四世紀の「蝦夷」の記録である『諏訪大明神縁起』を想起しよう。渡党蝦夷の居住地域として「前堂宇満伊犬」という地名があった。おそらくは「マトゥマイヌ」あるいは「マトゥマイン」と読むその地名こそ松前氏の名字の地なのだ。こう考えてくるといろいろなことが了解される。おそらく松前氏は「マトゥマイ」氏なのだ。そして蠣崎という名前を捨て、マトゥマイという名前を名乗った時、彼はおそらく和人よりもむしろアイヌに傾斜したのだろう。こう考えるとマトゥマイを名乗った松前慶広、より正確に言えばマトゥマイ慶広が「蝦夷錦」を来て天下人となった秀吉に面会したのもうなずける。マトゥマイに当てる字に「松平」と「前田」から一字ずつ拝領して「松前」を選んだのだろう。しかし読みは「マトゥマイ」だったようで、アンジェリスもカルワーリュもフリースも「マトゥマイ」「マトゥメイ」と記録したのである。
慶広の跡を継いだ公広はアンジェリスに対し「マトゥマイは日本ではない」と発言した。公広は「日本ではない」からキリスト教の宣教は「大事もない」と布教許可を出したのだ。つまり「日本」の枠外にあることを宣言したのである。しかしこれが「日本人」の松前公広が行えば非常に奇異な発言に見えるが、「アイヌ」のマトゥマイ公広の発言だとすれば蓋し当然である。
公広の発言の背景をうかがわせるのがカルワーリュの次の記述である。「マトゥマイドノは日本の支配下にありますが、イェゾの王でもあります」。これはしばしば「松前殿は日本人ですが、蝦夷人の王でもあります」と訳される。しかし原文を見る限り正しい訳ではない。
次回はマトゥマイ氏が「イェゾの王」となる過程を検討していきたい。