成立期の「アイヌ」

アイヌ文化がいつ成立したのかは謎に包まれている。そもそもアイヌ文化がどこに淵源を持つのかすら明白ではない。現時点では擦文文化を母体にオホーツク文化の影響を受容しながら13世紀前後に成立した、と考えられている。
この時期に元の史料に「クイ」と呼ばれる人間集団が登場する。クイは資料上では「骨嵬」「苦夷」「苦兀」などと表記されるが、クイというのはアイヌ北アジア交易ネットワークでの他称である。少なくとも13世紀にはアイヌにつながる文化集団が成立していたことが資料上からもうかがえる。
1260年ごろ、クイがカラフト中部に居住していた亦里于とともにカラフト北部に進出してきたとサハリン北部の吉烈迷からフビライのもとに訴えがあった。1264年にクイを攻撃した。1273年には征東招討使タヒラは間宮海峡を渡ろうとしたが風浪が激しく渡れなかったことについて、ウデヘのイムシェからの報告として、もしクイを攻撃したければ海峡が氷結するのを待つべきだ、というのをフビライに伝えている。1284年にはクイ攻撃が行われ、1285年にはヤンウルタイを征東招討使に任命して一万人の兵を付けてクイを攻撃させ、さらに大きな権限を持つ征東宣慰使都元帥に任命した。翌年にはヤンウルタイに加えてタタルタイを指揮官に任命し、船千艘でクイを攻撃した。
一旦クイの行動は沈静化したかに見えたが、1296年には吉烈迷の百戸であったホフェンとブフリがクイに通じた。それと結んだクイのウァインが海を渡って攻め込んできた。さらにクイのユブレンクはついにアムール川支流に攻め込んだが、これは撃退された。
1305年には再びクイが攻め込み、元軍は敗北を喫した。結局1308年にイウシェンヌ・ウァインらが皮を元に貢納することを認められた。
この出来事は従来「北からの蒙古襲来」と呼ばれ、クイ=アイヌに対して元が攻撃を加え、アイヌ社会に大きな打撃を与えたものと解釈されてきた。貢納も強制されたものと考えられてきたが、実際には貢納というのは、元と有利な条件で交易する権利のことであり、これはむしろクイ側の勝利であると考えられる。1305年のクイの勝利と1308年のクイの貢納開始の間にクイが敗北した、という記事が存在しないことは、その事情を裏書している。そしてこの時のクイの高い戦闘能力が元朝の記憶に残り、この時に残された「毒矢」や「器械堅利」という表象は明代・清代に受け継がれていくのである。この間の1287年にはクイテムルが1000の兵を率いて高麗にやってきている。「テムル」というのは「皇帝」や「王」を表す。彼らにも「王」に相当する存在があったのである。
1308年の記事を最後に彼らの姿は中国史料からは消える。しかし彼らの姿は「日本」側の史料に出現する。
十四世紀の「日本」の北の抑えである陸奥国を管轄していたのは北条得宗家であり、津軽を実際に管轄していたのは「蝦夷管領」と呼ばれた津軽安藤氏である。安藤氏は安倍姓の豪族で、安倍貞任の子孫で、さらに遡れば神武に抵抗して津軽に流された長臑彦である、という祖先伝承を持っていた。1322年には安藤季長と安藤季久の間で紛争が起こり、それぞれ「夷」を方人(味方)として戦ったという記述がある。「苦夷」と「蝦夷」とはほぼ同じ集団を指すと考えられ、いずれにせよ現在のアイヌにつながる集団であろうと考えられる。
1350年代に鎌倉幕府室町幕府に仕えた諏訪円忠は『諏訪大明神縁起』を著す。それによると当時の「蝦夷」は「渡党」と「唐子」と「日之本」の3つに分けられるという。渡党は「宇曾利鶴子別ト前堂宇満伊犬」付近に居住しているという。現在の函館付近と松前付近である。「毒矢」を使う、という点が強調されている点は「クイ」を思い起こさせるし、「木ヲ削リテ弊幣ノ如クニシテ、天ニ向テ誦呪ノ躰アリ」という祈祷の様子がアイヌの祈祷道具であるイナウと共通する。この段階では「アイヌ文化」が北海道において成立し、さらにサハリンへと居住地域を広げていったことがうかがえる。
明代に入ると再びヌルガンに「奴児干都司」が設置され、その管轄下に「苦夷」がいる。アイヌのサハリン定住は明によっても追認されているのである。しかし永楽帝の死後には明の影響力は減退し、アイヌは南に隣接する「日本」への経済依存を強めていくのである。
アイヌと境を接する安藤氏は京都の室町幕府との関係を深めていき、その勢力を誇示する。安藤氏は十三湊に本拠を置く嫡流下国氏、秋田湊に本拠を置く湊氏、青森湾に本拠を置く潮潟氏に分流するが、鎌倉殿と関係を持つ南部氏の攻撃を受け、下国康季・義季が相次いで戦死し、下国氏は断絶する。後に潮潟氏から政季が入り、下国氏を復興させるが、この時期に「コシャマイン戦争」が勃発する。
コシャマイン戦争は一般には和人がアイヌ少年を殺害したことからアイヌの反発が起こり、英雄コシャマインが立ち上がって和人を攻撃したが、蠣崎季繁の客将であった武田信広によってコシャマインが殺され、和人地が守られた、という戦闘である。ここから1550年に至る約100年間、アイヌと和人の間に戦闘行為が続く、とされてきたが、かつてのエントリで論じたごとく、『新羅之記録』に依拠した記述は疑問の余地がある。『新羅之記録』の記述するような「アイヌ対和人」という図式でこの時代の状況を説明するわけには行かない。蠣崎氏が松前守護を滅ぼして松前を押さえる時に、明らかにアイヌと共闘していること、1550年のアイヌと和人の「和睦」というのは明らかにアイヌと和人の間の休戦協定というよりは、シリウチのチコモタインとセタナイのハシタイン、マツマイの蠣崎季広による支配体制が成立した、ということに他ならないのだ。
その文脈でコシャマイン戦争を位置づけ直すと、コシャマイン戦争とは、道南地域の勢力相互の抗争の中で蠣崎氏がヘゲモニーを掌握した契機となった戦闘であったと言えよう。蠣崎氏が自らのヘゲモニーを確立し、安定した権力を確立するには以後の100年近くにわたる戦争を勝ち抜かなければならなかったのだ。その戦乱の時代の勝者がハシタイン・チコモタイン・蠣崎季広だったのだろう。我々は「和人」「アイヌ」というのを所与のものとして考えがちだが、実際には彼らが「アイヌ」か「和人」かというのも実は不確定である。特に「日本」とアイヌとの交渉を担当した「交易港管理者」であった蠣崎氏の場合、アイヌと「日本」人の両属的な側面を帯びていた、と考える方が自然だろう。
考えれば十三湊・青森湾という対アイヌ交易の「交易港管理者」の安藤氏も「エミシ」の出自を主張していた。安藤氏自体は実際には北条氏の御内人であったにも関わらずである。ここでも「両属性」を主張することによる「中立性」の担保が必要だったのだ。蠣崎氏も同じであるし、蠣崎から改名してマツマイというアイヌ語由来の姓を採用するにいたってマツマイ氏はますます「アイヌ」への傾斜を強めていくのである。
しかし「日本」の領域が確定されるにつれて中世的な「両属性」という側面は否定されるようになる。マツマイ氏は松前氏となり、『新羅之記録』を編纂してことさらにアイヌとの対立の歴史を誇るようになる。アイヌと「日本」の領域が確定したのである。