カジュアルではない反中

私は脳内限定の反体制歴史学研究者である。あくまで脳内限定なので、実際に行動したことはない。ただ大学という安全な場では言いたいことが言える。否、体制的な言辞はむしろ変人扱いされるので、反体制を唱えることが一番安全な場だったりするのだ。まあ私はヘタレ、ということ以外のことは示していない。
私はアカデミズムの枠組みの中では一応日本中世史の研究者ということになっている。大学で割り振られる講義科目は一般教養はともかく、専門課程の科目はすべて日本中世史を担当することになっている、という意味である。アイヌ史を講ずることが出来るのは一般教養でしかない。専門科目は一応分担が決まっていて、私がいきなりアイヌ史をやり出すと、他の教員に迷惑がかかるのだ。
私が今まで提出した公刊論文は、その大半が日明・日朝関係史である。アイヌ史は四分の一に過ぎない。当然大学院で研究していたのは日明関係史であった。
修士二回生の時に中国人留学生のCさんとRさんに出会った。Cさんとは修士一回生の時に同じゼミにいたことがあるのだが、東洋史専修であったことと、日本語があまり達者でなかったこともあって、同じく中国人留学生で日本近世史研究のYさんを介して少し話した位である。Cさんは日中近代化の比較論をやっている人で、そのCさんが私が当時出席していた中世史のゼミに連れてきたのが日明関係史をしているRさんであった。まあそのゼミは『建内記』という公家の日記を輪読するゼミだったのでRさんもCさんも全く関係がなかったのだが、日明関係史を専攻している私と意見交換をしたい、というのが眼目だったのだろう。Cさんの方が日本語能力がまだ達者で、Rさんも日本語は一応話せるが、場合によってはそれほど日本語が達者でもなかったはずのCさんを通訳にしたりして意思疎通していた。Rさんの修論の日本語の添削も私がやった。
Cさん、Rさんと一緒に呑んでいた時のことだ。Yさんが天安門事件の時に日本で中国の民主化を求めるデモに参加していて、中国政府から目をつけられていたことを知っていた私がYさんの話題を振った時、CさんとRさんは「Yさんはまだまし」と言った。ヘタレな私は反天皇制デモにも、反安保デモにも参加したことが無かったので、Yさんを武闘派とばかり思っていたのだが、CさんとRさんはその比ではなかったようだ。Cさんは何とか逃れおおせたようだが、Rさんは逃れられず、毎週大阪の中国領事館に出頭して思想改造を受けている最中だと言っていた。毎週徹底的に「分裂主義者」とか「反共主義」とか「裏切り者」とか罵られ、自己批判をさせられ、毎週それを文章にして提出しなければならず、それを怠ると強制送還が待っている、と言っていた。
大学院の博士課程には彼らと一緒に進学したが、専修が違っていたうえに、大学院を出てしまうと、私も塾講師が忙しくなり、音信が途絶えて久しい。しかし彼らから多くのことを学んだような気がしている。何よりも私が思うのは、彼らは中国を誰よりも愛していたに違いない、ということである。愛しているからこそ厳しく自分の国の過ちを非難していたのだろう。