腰痛

今日は部屋の掃除をした。自分の部屋として五畳半の洋室というかサービスルームというか納戸を占拠しているわけだが、そこの入り口に『鎌倉遺文』50巻と『史料大成』など計70冊ほどの本が積み重ねられていて入りづらいことこのうえない。ダイエットをするか本を片づけるかの二者択一なわけだが(笑)、結局片づけることとした。もっとも片づける場所があれば最初から片づけているわけであって、片づけるためにはそのスペースを捻出しなければならない。結局読まないであろうと思われる書籍を奥のスペースに平積みにすることにして、平積みになっている『鎌倉遺文』と『史料大成』を本棚に片づけることにした。おかげで腰が痛い。
その話を塾の理科担当の講師と話していたのだが、その講師は天文学の研究者で、彼が話すことによれば、理系の研究者はそれほどたくさん本を持っていないらしい。考えればデータは観測から生まれるわけで、本を読んでいる暇があれば観測してデータを集積する方が先決だ。私の身内に教育社会学者がいるが、やはり本はそれほど多くない。歴史学研究者は、めちゃくちゃ多い。私は一部屋占拠しているだけだが、ひどい人になると2LDK全てに本があふれている人もいる。一人暮らしで2LDKが狭いというのは異常だと思う。
しかし歴史学研究者って何でこんなに本が多いのか考えてしまう。そう言えば夏目漱石研究の石原千秋氏も本が多くて大変だった、ということを著書で書いていらっしゃった。分野によっては何でこんなに本をため込むのだろうか。
私は比較的本のバリエーションは少ない方だと思う。マルクス・エンゲルス全集は持っていない。『資本論』すら持っていない。ディープな人になれば『レーニン全集』を持っているものだ。ちなみに私が学生の頃、『レーニン全集』全10巻が5000円で売っていた。買っても良かったのだが、重いので止めた。その程度の意識である。私が持っているマルクス関係の著作と言えば、大月書店の文庫本で『経済学批判』とか『共産党宣言』とか『エルフルト綱領批判』とか『マルクス・エンゲルスマルクス主義』とか『家族・国家・私有財産の起源』とか『資本制的生産様式に先行する諸形態』とかである。まあ最後の二つを除いてはあまり専門には役に立たなかった。『ドイツイデオロギー』は広松版ではなく、合同出版の花崎皐平氏訳。これだけでやる気の無さ、というかアリバイ的な様子が透けて見える。まじめにマルクスを読むのであれば、私の世代であれば広松渉氏訳の河出書房新社の『ドイツイデオロギー』でなければならない。広松渉全集は持っているが、あれは血迷った。今は史料集の裏に隠れている。マルクスに近いもので言えば滝村隆一氏は一時熱心に集めようとして途中で挫折した。『ヴェーバーの丸山政治学』は読んだ。結局私は滝村氏よりも丸山真男が好きだった。吉本隆明氏は吉本氏よりも丸山真男が(以下同文)。丸山真男ファンとしてテサロニケ氏の丸山理解には疑問がある。あのような丸山理解ではチベット理解も光市母子殺害事件に関する理解も何かずれているのがよく分かる。
丸山真男氏はずいぶん熱心に集めたが、全集は結局買わず。場所がないことは明白であったし、丸山真男は主張な著作は全て集めていたので、まあいいかと。今回『鎌倉遺文』に場所を譲って平積み状態。鶴見良行氏も読まなければならない、と思いつつ今回平積み入り。あとは雑誌『日本史研究』。毎月増えるので平積みの方が逆に整理できる。
他にユルゲン・ハーバーマスとかロジェ・シャルチェとかピエール・ブルデューとかを平積み入り。ブルデューは読んだ。あとは積ん読ハーバーマスは読んでおかないと中世史研究者東島誠氏の論がわからなくなる可能性があるが、まあ読んでも私の能力では咀嚼は無理と思った。ハーバーマスは分からん。
あれやこれやと動かして、何とか『鎌倉遺文』を本棚に入れることに成功した。『鎌倉遺文』は本棚に入れておかないと、平積みでは使えない。というわけでしばらく鎌倉時代研究、というよりも「元寇」研究に本腰を入れよう。
で、これだけ偉そうに本の名前や人の名前を出しておきながら、結局ほとんど読んでいない、ということの表白でもあったわけだ。私の部屋の本のかなりの多数は無駄な本である可能性が高い。場所はとるわけだから「プラマイゼロ」どころか「むしろマ〜イ」。