北条時輔関係史料2 文永2年3月2日「六波羅御教書案」

この「案」というのは「案文」のこと。ようするに写し、というかコピー。もちろんコピー機で取ったわけではないが、筆写して手元に保管したりする。さきほどの文書は「正文」と呼ばれ、正真正銘の文書だったわけだが、こちらは案文。「後藤文書」収載。後藤文書は『西国武士団関係史料集18』(文献出版)に収載されている。『鎌倉遺文』自体は結構誤字・誤植が多いという話を仄聞したので、実際に論文に使う時にはチェックが必要らしいが、「そんなの関係ねぇ」。まあ史料購読などの講義で使われる時には少し留意した方がいいかも。私は自己満足の世界でやるので、そのまま無視する。

越後国御家人後藤右馬佐(マヽ)能清法師法名能忍申当庄(マヽ)所司職事、訴状副具書進上之。子細(見脱カ)状候歟。以此旨、可令披露給候、恐惶謹言
 文永二三月二日  平時輔裏判
          左近将監時茂在御判
進上 尾張守殿(名越公時カ)

文中(マヽ)とあるのは(原文ママ)のこと。多分間違えていると思うけど、一応そう書いてあるからそのようにしておこうかな、という時に付ける。最初の「マヽ」というのは「右馬佐」というのが実際は「右馬助」なので「間違えてますよ」と注意を喚起しているわけだ。「庄」にも付いているが、これはどう訂正したいのか私にはわからない。「子細状候歟」は多分「子細見状候歟」の間違いだろう、ということ。「子細は状を見候歟」と読むべきなのだろう。
とりあえず読み下し。

越後国御家人後藤右馬助能清法師、法名能忍が申す当庄所司職の事、訴状(具書を副え)これを進上す。子細は状を見候歟。この旨を以て披露せしめ給うべく候。恐惶謹言
(文永二年)三月二日 平時輔裏判
           左近将監時茂
進上 尾張守殿

3月1日付けの「六波羅御教書」とずいぶん書式が違う。まず書止めが1日付けの文書では「仍執達如件」となっていたのに対し「恐惶謹言」となっている。もちろん「薩摩次郎左衛門尉」に比べて宛先の「尾張守」が偉いので、厚礼の書式となっているのである。「尾張守」とは名越公時のこと。越後国守護であろう。公時は名越流北条氏で、名越時章の息子。後に二月騒動で時章が誅殺されるも冤罪ということで公時は当時は引付衆だったが、二月騒動の翌年には評定衆に進み、最終的には二番頭人に昇った。名越家が越後国守護職を持っていたので名越公時で間違いないというところだが、奥富敬之氏は『北条時宗』(角川撰書)において二階堂行有としている。『日本史総覧』をみる限りでは二階堂行有は「備中守」を名乗りとしているのでここは公時としておきたい。ちなみに公時の母は二階堂行有の娘なのであながち無関係でもないようだ。
この文書は奥富氏が『北条時宗』の中の「時宗と時輔の反目」という章の中で時輔が無位無官であることをもって時輔の六波羅探題南方就任を一種の追放である、と見なしたのであるが、時輔の叙爵の年齢を考えると決して得宗家庶流としては遅くない年齢であり、そもそも時宗や宗政と比べることが無意味である、という細川重男氏の指摘もある。
一応訳。

越後国御家人後藤右馬助能清法師、法名能忍が申す当庄所司職のこと、訴状に具書を副えて進上します。子細は訴状あります。この旨を以て披露させてくださるようお願いします。恐惶謹言。

後藤能清については詳細不明。当時は出家していて法名は能忍というが、『後藤家文書』は播磨後藤家に伝来した文書なので、後藤又兵衛の祖先に当たる人なのだろう。利仁流の藤原氏。まあ実際には『西国武士団関係史料』所収の後藤家文書をチェックすることは必要だろう。図書館に行くのが面倒くさいので適当に片づける。