文永4年(1267)12月6日「六波羅御教書案」 『高野山正智院文書』(『鎌遺』9812号)

地頭と領家の泥沼の抗争。間に立つ六波羅探題。任快の提訴を受けて再び地頭の湯浅宗氏に六波羅御教書が出される。
まずは本文。

(端裏書)阿弖河 六波羅殿御教書案 文永四年十二月六日
紀伊国阿弖河庄雑掌申去年年貢並当年所当事、訴状如此。何様事哉、可令明申之状如件
 文永四年十二月六日   散位在御判
             左近将監在御判
  地頭殿

読み下し。

紀伊国阿弖河庄雑掌申す去年の年貢並び当年の所当の事、訴状此の如し。何様の事哉。明らめ申さしむべき之状件の如し。

現代語訳。

紀伊国阿弖河庄雑掌が申す去年の年貢と今年の所当の事、原告からの訴状は以上のようである。どうなっているのかはっきりさせるように、とのことである。

この年、湯浅宗氏は本家職を握る領家職寂楽寺別当任快の年貢収納を妨害しようと百姓等を「責逃」がした。というのは任快側の言い分であり、真実はどうやら荘園を混乱させた任快に愛想を尽かした百姓等が地頭と手を組み逃散したらしい(参考、高橋修『中世武士団と地域社会』清文堂、2000年)。六波羅探題は基本的に地頭御家人の利益を代表する機関である。そこにクレーマーのごとく訴訟を持ち込む任快に困る探題両人の顔が浮かぶようである。顔は知らんけど。
もう一つ、百姓の動きだが、彼らは決して「過酷な支配に打ちひしがれる人々」ではなかった。領家と地頭の対立の中でキャスティングボードを握っていたのである。鎌倉時代の一つの闘争形態であったわけである。