北条時輔関係史料4 文永4年(1267)5月30日「六波羅御教書案」 『高野山文書又続宝簡集』(『鎌遺』9713号)

順番から言えば14番目にあたるのだが、前回の史料の続き。

(端裏書)六波羅殿召符案 文永四 五卅」
斎藤内
紀伊国阿弖河庄雑掌申年貢事、宰相法印状(副重解状)如此。為相尋子細、早速可被上洛之状如件
文永四年五月卅日   散位在御判
           左近将監在御判
 地頭殿

まずは読み下し。

紀伊国阿弖河庄雑掌申す年貢の事、宰相法印(園城寺任快)の状(重解状を副う)この如し。子細を相尋ねんがため、早速上洛せらるべきの状件のごとし。
文永四年五月卅日 散位(北条時輔
         左近将監(北条時茂
 地頭殿(湯浅宗氏)

現代語訳。

紀伊国阿弖河庄雑掌が申す年貢の事、宰相法印の状(重解状を副える)はこの通りである。子細を尋問したいので、早急に上洛せよ、とのことである。

これだけでは意味がわからないが、「宰相法印」が一つのポイントである。
前回紹介した六波羅御教書発給の半年後、本所の桜井宮が死去する。その直前に桜井宮から新たに阿弖川荘の領家職を保持する寂楽寺の別当に任ぜられた「宰相法印」こと園城寺僧任快が、文永三年の秋に年貢の収納にとりかかる。しかし地頭の湯浅宗氏がすでに徴収を済ませており、任快の引き渡し要求も宗氏に拒絶される。六波羅に提訴するも審理は捨て置かれ、文永四年の五月に再提訴に踏み切る。その時の文書がこれである。任快の再度の提訴を受けて六波羅探題でも放置できなかったようで、湯浅氏を呼び出して調査しようという姿勢を見せたのであろう。しかし同年秋には任快はまたもや年貢の徴収に失敗する。再び提訴するのであろう。それが次に取り上げる文書になる。