テッサ・モーリス・スズキ氏の論

テッサ・モーリス・スズキ氏の「チベット問題からみる人権 『国境』越えた連帯で保障を」を読んだ。「朝日新聞」5月22日付け。

今年3月、テロリスト容疑者を収容しているある施設から、そこにおける人権抑圧を告発する手紙が英国BCCに届けられた。
送り主はトルキスタニ氏で、中国ウイグル自治区の住民であり、トルコに向かう途中、十数人の仲間とともに捕縛された。すでに6年間、無裁判のまま1日22時間を独房で過ごすという劣悪な環境下で拘束されている。
ウイグルはいろいろな意味でチベットに酷似する。ウイグルでは独立や自治権拡大を求める運動が盛んだ。活動家の大多数は非暴力の抗議行動をおこなう。しかし中国政府はこれらの人々を過激派と同列とみなし、弾圧している。
トルキスタニ氏と仲間がテロ活動に従事したとする証拠は、皆無である。それでも故郷から遠く離れた収容所で拘束され続ける。明らかな人権侵害だ。中国政府によるチベットでの人権侵害に関心をもつ者なら誰でも、トルキスタニ氏らの即時釈放を関係当局に要求すべきだろう。
ところがそうはなっていない。なぜか?

と問いを投げ掛ける。ここまで読めば、また中国批判か、と思われるだろう。
しかしそうではない。トルキスタニ氏と仲間はイスラム教徒で、現在捕縛され、拘束されているのはグアンタナモ捕虜収容所なのだ。アメリカのブッシュ政権は、「テロとの戦い」の一環として中国政府に過激派への厳しい監視を要求し、その要求は独立や自治権拡大を求める活動家に「テロリスト」のレッテルを貼って弾圧を勧める中国政府にとっても都合が良かった。スズキ氏は次のようにいう。

少数民族への抑圧や人権侵害は決して、一部の「人権後進国」によってのみ引き起こされている現象ではないのだ。
チベットの人権問題では、世界中のほとんどすべての人権活動家が中国政府を批判する。当然のことだと思う。しかし同じ人たちがウイグルの人権問題に口を噤むのはいけない、と私は考える。

スズキ氏はチベット問題を反中国のナショナリズムの便利な道具にする行為について「反中国のナショナリズムは、必ずや中国における反日本のナショナリズムとしてお返しされるだろう」と述べる。
そしてスズキ氏は次のように提言する。

そうではなく、チベットでの人権侵害には、中国国内で困難な闘いを続ける人権活動家を含む世界的規模での連帯・協働で対抗する必要がある、と私は考える。「チベットに自由を」という声が反中ナショナリズムの好都合な道具として利用されてしまう事態は、避けねばならない。(中略)
チベットでの人権侵害に対抗するには、普遍的人権の保障という共通目的で、国境を越えて連帯・協働することこそが必要なのである。
そしてその運動は当然、無裁判のまま拘留されているグアンタナモの被収容者の人権救済要求をも視野に入れたものであるはずだろう。

スズキ氏といえば私が連想するのは『辺境から眺める』でアイヌと日本の近代化の問題を取り扱ったことである。中国の少数民族問題は中国だけに留まらず、さまざまな広がりを持つものである。少数民族問題を考える際には広い視野を持たねばならない、ということを私自身の問題として認識させられた文章であった。
追記
トラックバックあり。読んでみた。これまた勉強になった。まあいろいろな見方がある、ということで、ウイグル問題についてもいろいろ勉強しなければならない、ということだ。ウイグル問題を自己の政治的関心に利用する、ということにならないように考えたい。
追記2
少数民族問題に対する弾圧問題を取り上げる時に、知らない問題に対して軽視してしまいがちであることに自覚的でなければならない。今回のスズキ氏の論考も、それに対する批判であるトラックバック先も、その意味では私にとっては有益ではあった。
私が想起したのは、1970年代、アイヌ問題に関わった人々の中に、アイヌと対した日本を世界に類例のない残虐な弾圧国家であった、と糾弾する動きがあった。基本的にアイヌ民族ではない人が自分の政治活動のためにアイヌを利用したのである。日本は悪で、中国はましだ、という議論は少数民族問題を考察する際には成り立たない。逆もまた然りである。その意味でスズキ氏の「世界的規模での連帯・協働で対抗する必要がある」という提言はそれとして受け止めたい。
追記3
少数民族がしばしばどうしようもないカルトに頼ってしまうというのは現実問題としてある。中には本当に筋の悪いのもいるので要注意だ。ウイグルチベットに関しては詳しく知らないので保留せざるを得ないが、アイヌに関しては1970年代に今からみれば人間の屑とでも言いたくなる連中が関わっていたことも事実だ。アイヌでない人が「ツキノエアイヌ(ご用アイヌ)」への闘争からはじめよ、なんてことを書いていたりしたのだ。その筋の悪い運動家と行動を共にしていたアイヌの運動家とアイヌではないが、アイヌ問題に関わってきていた運動家はさすがに距離をとったが、賢明な判断であったと思う。少数民族に関しては、その球場につけ込んで自分の政治的思想を表現するために利用する人物がしばしば現れる。少数民族問題をだしに特定の政治思想を押し付ける言論には注意が必要である。
人のことをあれこれ言う前に少数民族問題にささやかに関わっている私が自戒せねばならない問題だろうが。
というわけで私はアイヌ問題を取り上げる際に「惨刑」とか「アカヒ」とかいう類いの下品な物言いをしないように気をつけよう。まあ今のところ使っていないと脳内では思っているが。