北条時輔関係史料 文永2年(1265)10月20日「六波羅問状」『青方文書』(『鎌遺』9373号)

松浦党内部のもめ事に対処する六波羅探題

肥前国御家人青方太郎吉高申、抑留所従三人由事、訴状如此。所申無相違者、可令糺返。若又有殊子細者、可被明申之状如件
 文永二年十月廿日  散位  (花押)
           左近将監(花押)
 白魚弥二郎殿

まずは読み下し。

肥前国御家人青方太郎能高が申す、所従三人を抑留する由の事、訴状は此の如し。申す所相違なくんば、糺し返さしむべし。若し又殊に子細あらば、明らめ申されるべきの状件の如し
 文永二年十月廿日  散位  (花押)
           左近将監(花押)
 白魚弥二郎(弘高)殿

現代語訳。

肥前国御家人青方太郎能高が申してきた、所従三人を抑留したとのことについて、訴状はこの通りである。申すところに相違なければ、返さなければならない。もし特殊な事情があるのであれば、はっきりさせなければならない。以上。

青方氏も白魚氏もいわゆる松浦党。海賊集団とか言われる人々だが、鎌倉幕府御家人である。当時の言葉では「海賊」という言葉は字面とは裏腹に御家人として組織されていたのだ。ここでは「海賊」という言葉は出てこないが、室町時代の『満済准后日記』では「海賊」という言葉を室町幕府側の集団に使っている。明から禁圧を要請された「倭寇」については「壱岐対馬者共」と表記され、「少弐内者」とされている。
もう一つ問題になるのは「所従」である。青方能高と白魚弘高の間で紛争の原因となっているのが、白魚弘高が青方能高の「所従三人」を抑留したことを青方能高が告訴したのである。「所従」とは「下人」と並ぶ身分で、家内奴隷と考えて良い。これをめぐって安良城盛昭が中世は奴隷制社会である、と主張した、いわゆる「太閤検地封建革命説」を唱えたことで知られる概念である。
問状とは、裁判において訴人(原告)からの訴状が提出されると、論人(被告)に訴状の旨を伝えて弁明を求める書状である。これは六波羅探題から出されているので、一応六波羅御教書の一つではあるのだが、内容がはっきりしているので、特に「問状(といじょう)」あるいは「問状御教書」と呼んでいる。論人は問状を受け取ると弁明書を提出する。これを陳状という。