史料を先入観無く読み込む 井芹重秀請文(石清水文書 鎌倉遺文一二二九七号文書)

史料を何の先入観もなく読み込むことは意外と難しい。史料を先入観なく読み込むことの難しさとしてしばしば挙げられる史料を挙げてみたい。

肥後国御家人井芹弥二郎藤原重秀法師(法名西向)謹注進言上
所領田数并人勢以下(乗馬 弓箭兵杖事)
一 所領田数、当国鹿子木庄内、井芹図田二十六丁六段三丈内、五丁四段大窪内、是東庄内被召闕所、宛給大窪之四郎兵衛尉者也。
残二十一丁二段三丈内、壹丁三段一丈(是西向妹女子分)此一丁三段一丈、後日之譲状、自西向親父手被思与者也。是当国執行代右衛尉宗平令押領当知行也。
一 孫二郎高秀分(八丁)、是東庄内也。
此内、四丁二段被押領大窪四郎兵衛尉者也。
(途中欠落カ)
大窪四郎兵衛尉者也
定残西向并孫二郎当知行之分
  西向十一丁三段二丈
         孫二郎分三丁八段
不可有其隠、庄家之取帳名寄候者也。
一 人勢弓箭兵杖乗馬事
西向年八十五、仍不能歩行
嫡子越前房永秀年六十五(在弓箭兵杖)
同子息弥五郎経秀年三十八(弓箭兵杖、腹巻一□(領カ)、乗馬一疋)
親類又二郎秀尚 年十九(弓箭兵杖、所従二人)
一 孫二郎高秀 年満四十(弓箭兵杖、腹巻一領、所従一人、乗馬一疋)
建治二年壬三月七日 沙弥西向(裏花押)

結構その筋では有名な史料。文書を提出した井芹重秀は肥後国鹿子木荘の御家人で井芹村の名主(みょうしゅ)。建治二(一二七六)年には高麗征伐計画が遂行されていた。少弐経資を大将とし、九州御家人を動員する計画である。経資は九州各国の守護に「異国征伐」に動員し得る人員や武器、乗馬の数、その算定の基礎となる所領の大きさを注進させた。今日記録の残存状況などからもっともよくわかるのが肥後国であった。
肥後国の動員状況がよくわかるのは、肥後国で動員された人々の請文が箱崎八幡宮に奉納された『筥崎八幡宮御神宝記』の紙背文書として残存した。ようするに少弐氏と並んで異国征伐計画の責任者であった大友氏のところに提出された請文が、異国征伐計画の頓挫とともに不要となり、大友氏はその紙を利用して『御神宝記』を作成し、箱崎八幡宮に奉納したものである。それは本所の石清水八幡宮に伝来し、今日に残されることとなったのだ。
井芹重秀が有名になったのは、重秀が八十五歳の老齢で、歩行もかなわないのに六十五歳と老境に入った息子を代理として遣わせたことから、戦前には国民精神文化研究所が発行した『元寇史料集』に収載され、「当時の我が国民が老若男女の別なく国難に殉ずるの覚悟を有したことを十分くみとることが出来る」とされた文書である。
しかし今日ではこの文書は本来16人の動員を課されるはずだったのに、所領を過少申告して7人の動員で済ませようとした文書であることが判明している。網野善彦氏は「史料をすなおに読むことのたいせつさ、それを特定の意図をもって解釈することが、いかに大きな誤りをみちびきだすかを、この例はよく物語っている」(『蒙古襲来』小学館、1974年)と述べている。
この史料はどのように読まれるべきなのか、それをみていきたい。