井芹重秀請文(石清水文書 鎌倉遺文一二二九七号文書)を読む 2

文永の役」後に企画された「異国征伐」計画に関する史料で、ある筋では有名なこの史料。肥後国鹿子木荘井芹村名主で御家人であった井芹重秀が肥後国守護安達泰盛に提出した請文。大きく分けると2段に分かれる。前段が所領田数、つまり人数の算定の基礎となる所領の広さ、後段がそこから算定された人数。戦前には
「当時の我が国民が老若男女の別なく国難に殉ずるの覚悟を有したことを十分くみとることが出来る」とされた史料だが、実際はどう読むべきなのか。
後段のみを読むと八十五歳で歩行もかなわない老人が、六十五歳の嫡子以下七人を異国征伐に出させる、という記事だけ見れば、「国難に殉ずる」覚悟を有していたことの説明にもなるだろう。しかしこのように自分に都合のいい部分のみをクローズアップして自説の補強に使う、というのはきわめて不誠実な行為である。
前半部分の記述に書いてあることをみていこう。
まずは井芹重秀の所領の状況から。大田文に記載されている知行田数は三十四丁六段六丈。「反」に直すと346.6反となる。一反は約1アールなので34ヘクタールとなる。重秀が申告しているのは、34ヘクタール強の所領のうち、実際に自分が知行している所領(当知行分)は151.4反つまり15ヘクタール強で、残る195.2反つまり20ヘクタール弱は自分の土地ではもはやない(不知行分)、ということである。不知行の事由は、重秀の分の26.6ヘクタールについては54反つまり5.4ヘクタールは大窪四郎に押領されている、とし、残る21ヘクタールの内、1.3ヘクタールは妹に譲与、とすると8.6ヘクタールが不明だが、これも大窪氏に押領されたのだろうか。子息の高秀分は8ヘクタールだが、これも4.2ヘクタールについては大窪氏が押領していて、実際に高秀の所領となっているのは3.8ヘクタール、ということである。
重秀が申告した7人の軍勢はおそらく15ヘクタール分の割当と考えられる。とすれば34ヘクタールを保有する重秀は本来ならば16人出さなければならない計算になる。しかし20ヘクタール弱を不知行と申告することによって7人分の動員で済まそうとしているのである。
重秀が実際に苦しい台所事情にもかかわらず7人でも人数を出そうとしている背景については海津一朗氏の『蒙古襲来』(吉川弘文館、1998年)に詳しい。高秀は地頭の安芸定時から訴えられていたのである。定時との裁判闘争を勝ち抜くためには幕府からの求めに応じなくてはならない。ノルマを最小限に抑えながらの高麗出兵への参加は重秀の起死回生の手段だ、という。
一応安芸定時が井芹高秀を訴えた裁判の関係史料を挙げておこう。
『鎌倉遺文』一一九九四号文書「関東御教書案」。

肥後国鹿子木西庄下村地頭安芸木工助定時申、荷村名主越前房永秀称給各別安堵御下文、不従所勘由事、訴状遣之。早相尋子細、可令注進之状、依仰執達如件
 建治元年八月十四日 武蔵守(北条義政
           相模守(北条時宗

これは原告の地頭職の安芸定時が被告の井芹高秀を訴えたものである。定時によれば高秀は「各別安堵御下文」を給わった、と称して地頭の命令に従わない、と訴えてきたのである。それについて鎌倉幕府から「関東御教書」が高秀の下にやってきた。安芸定時の素性は不明だが、九州の在地の武士と関東から下ってきた御家人との軋轢は珍しいものではない。