北条時輔関係史料番外編 「美濃国茜部荘雑掌申状土代」(鎌倉遺文9744号文書)

東大寺側の言い分。長いので本文と中身の略述にとどめる。「土代」つまり下書きなので抹消部分や挿入部分(【 】の部分)があって読みにくいことをお断りしておく。というか、ほとんど読まないか。こういうネットの中ではみられない情報を提供していくのも意味があるかな、と思っている。歴史学研究で使う史料とはどういうものか、知っていただけたら幸甚である。

東大寺御領美濃国茜部庄雑掌言上
欲早被停止、当庄地頭代◦号請所、自由押領庄家、犯用御年貢、寺家雖被止其儀、捧謀陳不叙用、無謂子細状
副進
 仁治二年地頭請文案一通
右、当庄者、百学生供之料庄、重色異他之寺領也。而地頭代号請所、自由押領庄家不隨所勘之間前任勧修寺(聖基)之時、雑掌度々雖訴申之、敢不止押領之儀。当御任(定済)又雖被仰付雑掌、行村収公一庄、不及雑掌所務■■、難堪次第也。就中【前々寺務之初者、自地頭申入子細、被成下知之後、令庄務之處、於今度者、不及申其子細、押而知行候。豈非自由之狼藉哉。其上】去年分絹綿于今未済之条、為未曾有事之間、企参洛申散用、又可償未進之由、被仰下下知之處、適乍参上、不逐散用、逃下了。設雖為武家御口入之請所、如今所行者、尤足被改易。況為武家御口入之由、不備一紙之證文、何【背寺家之命】自由可押領寺領哉。凡於此請所者、貞応年中、勧修寺故僧正房(成実)寺務之時、一旦雖被宛行地頭(長井時広)、更非永代請所之儀。仍其後於宮僧正御房(道尊)以後六代者、差下寺家之雑掌、直被加沙汰了。而新熊野僧正房(定親)寺務之時、前地頭代依為廉直之仁、年貢所済可為憲法之間、又被宛行了。其時地頭代請文状云、当御庄可為地頭請所之由、被仰下者、件絹已下員数無相違、不論旱水損、毎年不闕、守先例可令究済案文進覧候云々、如状者、請所非永代之儀、可為寺務進退之旨分明也。而於彼一任者、年貢無懈怠之間、請所之儀、又不相違。尊勝院法印(宗性)并勧修寺前大僧正房(聖基)寺務之始、地頭未致不法之上、依懇望、不被改之處、此両三年、新補地頭代左衛門尉行村奸謀過法、不法超倫、先当庄年貢十月以前以令運送之維摩会聴衆分、彼会以前究下之、所残歳内必十一月中究納者例也。而彼運上一々違乱、殊於去年分者、云絹、云綿、于今未進、彌【混乱】翌年収納之条、豈非重科哉。其上邂逅之所済、毎物麁品、所定置之分限、皆令相違了。旁寺用失墜之源也。早被経御沙汰、停止地頭自由之押領、寺家雑掌以収納御年貢、無懈怠、彼致其沙汰、【此上於御不審相残者、早被召上地頭代、被逐一決之上、明去年之進未、欲糺返犯用御年貢矣、仍言上如件
文永四年七月 日   雑掌

ごく大ざっぱに内容を説明すれば、地頭代を首にしてくれ、ということ。
読み下し。

東大寺御領美濃国茜部庄雑掌言上
欲早被停止、当庄地頭代左衛門尉行村号請所、自由押領庄家、犯用御年貢、寺家雖被止其儀、捧謀陳不叙用、無謂子細状
 副進
仁治二年地頭請文案一通
右、当庄は、百学生供の料庄にして、重色は他に異なるの寺領也。しかるに地頭代は請所と号して、自由押領の間、前任の勧修寺(聖基)の時、雑掌度々これを訴え申すといえども、敢えて押領之儀を止めず。当御任(定済)又雑掌に仰せ付くといえども、行村は一庄を収公し、雑掌の所務に及ばず■■、堪え難きの次第也。就中、前々寺務之初めは、地頭より子細申し入れ、下知を成される之後、庄務之をせしむの處、今度に於ては、其の子細を申すに及ばず、押して知行候。豈に自由之狼藉にあらず哉。其の上去年分の絹綿今に未済之条、未曾有事為る之間、参洛を企て散用を申し、又未進を償うべき之由、下知せらる之處、たまたま参上しながら、散用を逐わず、逃げ下りおわんぬ。設し武家御口入之請所たるといえども、今の所行の如くんば、尤も改易せらるに足る。況んや武家御口入たる之由、一紙之證文を備えず、何んぞ寺家之命に背き、自由に寺領を押領すべけん哉。凡そ此の請所においては、貞応年中、勧修寺故僧正房(成実)寺務之時、一旦地頭(長井時広)に宛て行われるといえども、更に永代請所之儀にあらず。仍て其の後宮僧正御房(道尊)以後六代においては、寺家之雑掌を差し下し、直かに沙汰を加えられおわんぬ。而るに新熊野僧正房(定親)寺務の時、前地頭代は廉直之仁たるにより、年貢所済憲法たるべき之間、又宛て行なわれおわんぬ。其時地頭代請文の状に云く、当御庄地頭請所たるべき之由、仰せ下ださるは、件の絹已下員数相違無く、旱水損を論ぜず、毎年闕かさず、先例を守り、究済せしむべきの案文覧に進め候と云々。状のごとくんば、請所は永代之儀にあらず為寺務進退たるべき之旨分明也。而るに彼一任においては、年貢懈怠なき之間、請所之儀、又相違せず。尊勝院法印(宗性)并勧修寺前大僧正房(聖基)寺務之始め、地頭いまだ不法をせざる之上、懇望により、改められず之處、此両三年、新補地頭代左衛門尉行村の奸謀は法に過ぎ、不法倫を超ゆ。先ず当庄年貢十月以前に以てこれを運送せしむは維摩会聴衆の分、彼の会以前これを究め下す。残る所は歳十一月中に究納するは例也。而るに彼運上は一々違乱し、殊に去年の分においては、絹と云い、綿と云い、今に未進、いよいよ混乱し翌年に収納之条、豈に重科にあらざる哉。其上邂逅之所済は、物ごとに麁品にして、定置ところの分限は、皆相違せしめおわんぬ。旁た寺用失墜の源なり。早く御沙汰を経られ、地頭の自由の押領を停止し、寺家雑掌御年貢の収納を致すを以て、懈怠なく、被致其の沙汰を致さる。此上地頭代を召し上げられ、明去年の進未、欲糺返犯用の御年貢を糺し返さんことを欲す、仍て言上件の如し。
  文永四年七月 日   雑掌上