北条時輔関係史料 文永6年(1269)9月7日「六波羅御教書案」 『東大寺文書』(『鎌倉遺文』10486号)

結構前回の文書から間が開いていて、その間にもいろいろ伊藤行村の文書も残っているので、六波羅探題はこの間何もしていなかったわけではなく、文書が残存していないだけなのだろう。ただこの文書を見ても、伊藤行村が上洛してこないことが問題視されている。
本文

東大寺衆徒申美濃国茜部庄請所以下事、別当僧正御文(副解状・具書)遣之。此事先ゝ経沙汰了。所詮、為相尋所存、今月廿日以前可企参洛。若令違期者、定有後悔歟之由、相触地頭代、可被執進分明也。仍執達如件
 文永六年九月七日   散位 在御判
            陸奥守 在判
 石川七郎殿

読み下し

東大寺衆徒が申す、美濃国の茜部庄の請所以下の事、別当僧正(定済)御文(副解状・具書)これを遣す。此事先ゝに沙汰を経おわんぬ。所詮、所存を相尋ねんが為、今月廿日以前に参洛を企てるべし。もし期に違いせしめば、定めて後悔あらんかの由、地頭代に相触れ、執進せらるべき分、明らか也。仍て執達件の如し。
 文永六年九月七日   散位(北条時輔) 在御判
            陸奥守(北条時茂) 在判
 石川七郎殿(石川義秀)

完全に伊藤行村に直接言っても埒が明かない、と見なされている。「もし期限内にこなければ後悔するだろう」って脅し文句まで付けている。出頭要請にこんな脅し文句があればびびってしまうだろうに。
伊藤行村の反応。
美濃茜部荘地頭代伊藤行村請文案(『鎌倉遺文』10496号文書)

九月七日六波羅殿御教書、同卅(廿)日到来。畏拝見仕了
抑茜部庄請所事、東大寺寺解加一見候之處、申状存外候。去文永四年之比、依申付御教書候。明申候之刻、任先例可致沙汰候云々。存其旨候之處、今又及訴訟候之条、無謂候。所詮、不日雖可企参洛候。維摩会用途及遅々候者、自他無勿躰候。沙汰立後、十月十日可令参上候。以此旨、可有御披露候。恐惶謹言
  文永六年
     九月廿四日   左衛門尉行村請文

読み下し

九月七日六波羅殿の御教書、同廿日に到来す。畏み拝見仕りおわんぬ。
そもそも茜部庄が請所の事、東大寺の寺解に一見を加え候の處、申状は存外に候。去る文永四年のころ、御教書を申し付け候に依り、明らめ申し候の刻、先例に任せて沙汰致すべく候と云々。其の旨を存じ候の處、今又訴訟に及び候の条、謂われなく候。所詮、不日企参洛を企つべき候といえども、維摩会の用途遅々に及び候はば、自他勿躰なく候。沙汰を立つるの後、十月十日参上せしむげく候。此の旨を以て、御披露あるべく候。恐惶謹言
  文永六年
     九月廿四日   左衛門尉行村請文

六波羅探題は九月二十日に出頭せよ、と言っているが、行村によれば御教書がそもそも二十日に来た、との言い分。九月七日に出されて二十日に着く、というのはいささか遅いように思うが、そんなものなのかもしれない。ただ怪しいのは「三十日」という日付を一旦消して「二十日」に書き換えている所である。実際は二十日以前に来ていたのではないか。しかし出頭する気のない行村は来た日付をごまかすことによって期日を遅らせようとしているのだろう。当初は三十日に来た、と言っていたが、七日に出された御教書が三十日まで来なかった、というのは不自然すぎたのであろう、二十日に変えたのだ。二十日ならば当初に「二十日までに出頭せよ、でないと後悔するぞ」と言われていた日付だが、出頭しないことを六波羅のせいにすることができる。その行動が六波羅探題の不信を買っている最大の理由なのだが。行村側からすれば、御家人の側に立ってしかるべき六波羅探題東大寺の言い分を認めていることに対する不満があるかもしれない。六波羅探題は誰のための組織なのか、という問題が浮上しているとも考えられよう。