北条時輔関係史料 文永4年(1267)5月30日「六波羅御教書」 『遠江山中文書』(『鎌倉遺文』補遺3、1604号)

差出人も日付も宛所も同じ文書。中身が少し違う。案文の質が違うようで、こちらは写し間違いが多いのか、あちらこちらの(脱カ)の注釈がある。中身もほぼ同じ。六波羅探題が侍所所司である平盛時に大番役の職務が修了したことを報告している。
とりあえず本文。

(前欠)中務丞藤(脱アラン)大番役六ヶ□〜月内、太郎左衛門入道教西分三ヶ月(正二三)於 新院御(所脱カ)前(富小路殿)西面棟門并笹屋一所(九条十間)倉分勤仕候畢。以此旨、可有御披露候。恐惶謹言
 文永四年五月卅日  散位平朝臣
           左近将監平時茂
進上 平三郎左衛門尉殿

読み下し

(前がない)中務丞藤(脱字があるんとちゃうか)大番役六ヶ□〜月内、太郎左衛門入道教西の分の三ヶ月(正二三)は於 新院(亀山院)御所前(富小路殿)の西面棟門并びに笹屋一所(九条十間)倉分を勤仕し候おわんぬ。此の旨を以て、御披露あるべく候。恐惶謹言
 文永四年五月卅日  散位平朝臣
           左近将監平時茂
進上 平三郎左衛門尉殿

遠江山中文書』に入っている、ということは、遠江国御家人の山中太郎左衛門入道教西の分の三ヶ月分は亀山上皇の御所と「笹屋一所」の警備を担当した、ということの報告書だろう。「笹屋一所」には「倉分」とあるので、商業のための「倉」を警備していたのだろうか。
鎌倉時代中期になると半年の勤務期間が三ヶ月に短縮されるのだが、その過渡期を表す文書でもあろう。六ヶ月勤めるのが一応正しいのだが、何かと理由をつけて三ヶ月に短縮している、と考えられる。
ただ激しく気になる点を一つ。
「笹屋」は「篝屋」の、「十間倉」は「高倉」、「分」は「令」の間違いではないか、と思われる点だ。「太郎左衛門教西」と「太郎左衛門敬西」もたぶん「きょうさい」と読むのだろう。とするとこの文書は前回の文書の劣化コピーではないか、と思われる。だとしたらまさに「これはひどい」。
一応前回の文書の本文を再掲しておこう。

中務丞跡大番役六ヶ月間、太郎左衛門入道敬西分三ヶ月(正二三)於 新院御所(富小路殿)西面棟門并篝屋一所(九条高倉)令勤仕候畢。以此旨、可有御披露候。恐惶謹言。
 文永四年五月卅日  散位平時輔「裏(花押)」
           左近将監平時茂「裏(花押)」
進上 平三郎左衛門尉殿