HALTAN氏への質問状

HALTAN氏に対してそもそも私が最初に蕪雑な言葉を投げつけたことからHALTAN氏との論争が始まったのだが、その結果HALTAN氏には不快の念を与えたであろうことに対しては反省せねばなるまい。私がHALTAN氏の言い分に対して不快感を持っているのは事実だが、実際責任の大部分は私が最初に「階級概念が分かっていない」とかみついたところにある。これはもう少し正確に表現する必要があった。HALTAN氏は階級闘争史観という概念を不正確に恣意的に使って、自分の左翼嫌いの正当化に使っている、と。
もう一度引用したい(「http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080806」)。

自分がサヨクを嫌いなのは、
(1)階級闘争史観で何でも説明できるのか?
(2)仮に(1)が正しいとして、その論理の貫徹が不徹底ではないか?(中略)
主にこの2点です。難しいことは何もない。簡単でしょ?

階級闘争史観で何でも説明できる、と考えている左翼など今どき絶滅危惧種だろう、と思っていたのだが、HALTAN氏にとってはそうではなかった。私の理解では「階級闘争史観」というのは、歴史学のプロパーでは、マルクス主義の『経済学批判』あるいは『資本論』、『資本制的生産様式に先行する諸形態』における唯物史観の「公式」に即して、下部構造における支配階級と被支配階級の階級闘争を通じて歴史の発展が勝ち取られる、という史観であると思っていた。そしてその「史観」は歴史学の方法論としては「階級」とは異なるさまざまな対立軸の設置によって克服されたものと考えていたのだ。本業の室町政治史研究と並行して、というよりここ数年本業と化していたアイヌ史研究は、まさに「階級闘争史観」では描ききれなかった歴史像である。アイヌ史以外にも70年代に提示された「人民闘争史観」という分析概念によって「階級闘争史観」では光を当ててこられなかった様々な分野の研究が進展した。琉球史研究の進展も同じ側面で考えられなければならない。女性史研究の進展もそうだ。マイノリティ史研究の進展が70年代から80年代の歴史研究を特徴づける研究動向だと思うが、それは「階級闘争史観」で何でも説明できる、とは少なくとも歴史学の主流では考えられていない、と私は考えていた。HALTANの「階級闘争史観」の概念は私には分からなかったので是非ご教示いただきたい。何しろ「サヨクが嫌いな」ことの理由に「(1)階級闘争史観で何でも説明できるのか?」と挙げ「簡単でしょ?」と言っている以上、氏の議論の論拠の根底をなしていると思われるからである。ここの前提が崩れれば、氏の「サヨク嫌い」の理由は(2)の「その論理の貫徹が不徹底ではないか?」ということ一つに限られるからである。事実氏はそれ以降(2)の部分にしぼって「サヨク嫌い」の理由を説明していらっしゃるようだ。しかしそれもそもそもおかしい。というのは(2)の最初の部分に「仮に(1)が正しいとして」と言っているが、そのような「サヨク」は極く少数派だからだ。典型的なわら人形論法になってしまうのだが、ご本人は「いえ、藁人形ではありません」と言っているので、「仮に(1)が正しいとして」の部分が全く意味不明になっている。(1)は正しくないし、サヨクもそれは分かっているのだ。
(1)及び「仮に(1)が正しいとして」という前提は完全に崩れた、と私は思っていて、その結果HALTAN氏の議論はすでに論拠を失って支離滅裂なものになっている、と私は考えるのだが、氏は(2)の後半部分、つまり「その論理の貫徹が不徹底」という側面からサヨク批判を展開している。しかし(2)に基づくサヨク批判に関しては私がHALTAN氏に対して徹底的に論難を加えなければならない事情がある。
(2)に基づくHALTAN氏の記述をみてみよう(「http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080807/p2」)。

別に共産党でなくてもいいのですが、最近、労働運動やノンセクト運動界隈で、この春原なる人物のようなアジテーションがよく行われているみたいですけどね。それも御自分はどこかの大学に属するアカデミシャンであったり、会社所属のジャーナリストであったりする人も多いようですね。そういう人たちに対してなぜ誰も「では、そこで貴方は具体的に何をしてらっしゃるのですか?」と聞き返さないのでしょう? という素朴な疑問を抱いているわけなのですが、それはKYとして言ってはいけないことになっている、ということでよろしいのでしょうか?

あるいは次の一節(「http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080807/p2」)。

自分などはむしろ、「左」の方々がなぜ上記のようなプリミティブで直截的な疑問(「では、そこで貴方は具体的に何をしてらっしゃるのですか?」)をアカデミズムやジャーナリズムの人にぶつけないのだろう、とずっと不思議に思っていたのですが・・・。そういう態度は実はあなた方の中では何らかの論理で既に克服済か、もしくはKYとして侮蔑されるべきものとして了解されている、ということなのでしょうか? 

あるいはこれ(「http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080807/p2」)。

決して文革ポルポトを支持するわけではないが、だがやはりここは下っ端サヨクさんたちには、こうしたアジテーションを行う「御自分はどこかの大学に属するアカデミシャンであったり、会社所属のジャーナリスト」の方々を「プチブル反動スタ官」と罵倒し倒して欲しい。リアルでは言いにくいなら、別にネットでも構わないだろう(自分もさすがにこういうことをリアルで言う気はない) そうやって彼らの安易なスローガンの欺瞞性を内部から自壊に導いていくことこそ、サヨクになってしまった人間たちに課された宿命ではないだろうか? これは大真面目に期待しているのだが、余りそういうことが行われているという話を聞かないので、自分が代わりにやっているのです(苦笑)

要するにHALTAN氏は「大学に属するアカデミシャン」が「アジテーション」を行うことを否定している。「何をしてらっしゃるのですか」と聞かれれば「何をしなければなりませんか」と反問せざるを得ない。大学に所属して歴史学を講じるべき立場にある自分が同時に少数民族をめぐる現状や、ワーキングプアをめぐる現状に対し、自分のできることをやろうとすれば、まずは自分の研究成果と現実の問題をリンクさせ、講じるより他にはあるまい。しかしそれは「安易なスローガン」であり、それを行ったらHALTAN氏からは「では、そこで貴方は具体的になにをしてらっしゃるのですか?」とつるし上げられ、「「プチブル反動スタ官」と罵倒し倒」されるのだ。学問の研究成果を社会に少しでも還元させようと言う研究者の努力を否定し、学問を象牙の塔に押し込めようとするHALTAN氏の姿勢は、私がこの二十年に渡って実践してきた学問研究のあり方と根本的に対立するものである。
そしてそれは別に目新しいものでもHALTAN氏に固有のものでもない。もちろん最近流行の「ネトウヨ」でもない。HALTAN氏は端的に言って70年代新左翼の心性を持っているのだ。「インテリか活動家か」という二元論の図式、HALTAN氏の言葉によれば「アカデミシャンやジャーナリストか下っ端サヨクか」という二元論になる。しかしこういう二元論はまさに「為にする議論」でしかない。こういう二元論の図式は克服されるべきものと考えている私とはおそらく響きあうことはないだろうし、分かりあうこともないだろう。
私は「サヨク嫌い」を否定するつもりは全くない。仮にHALTAN氏が「サヨクを嫌いなのは(1)啓蒙的で(2)偽善者だからだ」と言われれば、偽善者で上から目線の啓蒙野郎である私は少しは反省したかもしれない。私は常に自分の記述が啓蒙的で偽善的にならないかを恐れているのは事実である。そしてHALTAN氏が自分の思っている違和感を説明するのに「サヨクは偽善者だ」と言えば、少なくとも私はそれを受け入れただろう。しかしApeman氏やhokusyu氏らの「下っ端サヨク」(「もっとキツいことを言えば、Apemanさんやhokusyuさんのような「下っ端サヨク」(笑)の方々」と「http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080809/p1」において言及。)に対して私を含む「どこかの大学に属するアカデミシャン」を「プチブル反動スタ官」と罵倒し倒すように呼びかけ、「私が代わりにやっているのです(苦笑)」とまで罵倒し倒されれば、当然私もそれ相応の反批判をせざるを得ない。そもそも私には「下っ端サヨク」と「アカデミシャン」を分ける意味が皆目分からないのだ。「アカデミシャン」も「下っ端サヨク」ではないのか、とか、「下っ端」とはそもそもどういう意味か、というのがよく分からない。そして何度も問うが、「どこかの大学に属するアカデミシャン」が、現在の社会情勢に問題意識を持って自分のできる範囲で発言していこう、という動きがなぜ「罵倒し倒」されなければならないのか。その点に関してだけ、明確な回答をいただきたい。
HALTAN氏に問う。なぜ私はあなたに「プチブル反動スタ官」と「罵倒し倒」されなければならないのだ。私を「プチブル反動スタ官」と「罵倒し倒」すことを宣言したあなたにはそれに答える義務がある。
追記
私も「あたまがわるい」メソッド(当初タグと表記していたが)で自己防衛、ということについて回答しておく。
私の蕪雑なブクマに対して「はは・・・idにid:Wallerstein とか付けるようなマジメな人には、自分のような輩はそりゃ嫌われるだろうねえ・・・。」という反応に代表される行動様式を指している。「自分のような輩」と卑下することによって、論点をはぐらかすことである。この一節に関しては私に原因があるので、あながちHALTAN氏が責められる謂われはないのだが、他の箇所でも「自分のようなチンピラ」とか、とかく自分を卑下し、「あたまがわるい」から分からない、と開き直る行動様式のことを指している。「あたまがわるい」タグを貼られたことに対する皮肉であるのは理解できないでもないし、あくまでも私が喧嘩を売った形になっているから、私がHALTAN氏の反応にいらつくのは理不尽であることは承知の上で、あえて触れさせていただいた。