HALTAN氏に対して大きなお世話を焼いてみる。

HALTAN氏に対して大きなお世話を焼いてみる。
例えば私の昨日の理不尽なぶち切れエントリに対する返答としてここまでに止めておけば今日のエントリはなかった。「なるほど、HALTANさんのおっしゃることもわかりました」で終わっていたはずだ。

まず、現状のワーキングプア報道のほとんどが総需要問題を無視しているという限界があり、その壁を越えられない以上、何を語っても論壇やジャーナリズムで無内容に消費されていくだけというのが現実ではないでしょうか? これはid:HALTAN:20080809:p2 にも書きました。その他、ワーキングプア報道にはいくつも致命的な欠陥があるのですが、そこをまとめたエントリは後から読み返して「気に入らなかった」ので削ってしまいました(笑。いや、さっきまで残っていると思っていたのだが、削除していたようです・・・ははは) 結論だけはっきり言ってしまいますと、世耕さんたちとは全く違った意味で、自分はああした報道をほとんど信用していません(この辺りは拙ブログでは繰り返し繰り返し小出しに書いてきましたがね。まあいちいち読めとは言いませんが)
また、仮にそうした報道が説く世界観なりスローガンが正しいとしても、「では、当のジャーナリズム業界はどうなのか?」については、既に足元からも問い返され始めているのが現実です。

6月17日、マスコミが絶対に取り上げず、なかなかスポットが当たっていなかった「マスコミ内部の労働問題」に取り組む一歩が踏み出された。
出版労連の主催する出版研究集会の1コマとして開かれたシンポジウム「知ってますか?隣の人の働き方 〜メディア企業の中のフリーランス〜」に、新聞、テレビ、雑誌などの現場で働く人たちを中心に60名が参加し、ホットな討論が交わされた。
ヘラルド朝日労組の松元千枝さんは、朝日新聞社による「偽装請負」の実態を語り、「不当な格差はモチベーションを下げ、読者の不信も買っている」と指摘。主婦と生活社労組の網谷茂孝さんは、「うちも常駐フリーが多いが、机を並べて働いているのに条件がかなり違い、人間関係もギスギスしがちだ」と語った。
イラストレーターで出版ネッツの広浜綾子さんは、「料金があまりに安く契約書も交わされない。個人の実力だけではどうにもならない」。映像ディレクターの西野保さんは「技術の進歩は諸刃の剣だ。業務の垣根がなくなり、一人で何でもやらされるのに正当な対価はもらえない」と現状を明かした。
それを受け、東京大学准教授の林香里さん(マスメディア・ジャーナリズム論)は、「個人の実力だけでは無理というのは確かにそうだ。ドイツではこうした状況は、『文化領域における構造的貧困』と呼ばれる。メディア企業がうまく搾取する仕組みができている」と話した。 「ワーキングプア問題の本を出している会社がワーキングプアをつくっている」「最年少の過労死は新聞奨学生だ」など、参加者からも、経験に根ざした切実な発言が続いた。
報告〜シンポジウム「メディア企業の中のフリーランス」 レイバーネット日本(報告=北 健一)Last modified on 2008-06-19 01:05:06
http://www.labornetjp.org/news/2008/0617hokoku/

ここに取り上げられている事例とそこで活動する人々にまた私も共感を覚えるからである。私は東京大学准教授という、「アカデミシャン」であり、大学というワーキングプア問題のもう一つの現場に身を置いている立場の人を、「では、そこで貴方は具体的に何をしてらっしゃるのですか?」と批判しない。人はみな、自分のできることをすればいい、と思っているからである。HALTAN氏が自分のダブスタに「はは、こりゃ一本取られたねえ。確かに(苦笑)」と私から指摘されるまで気付かなかったことについては、「あたまがわるい」から、と切って捨てるのは簡単である。しかしおそらくそれは違うし、また有効でもない。HALTAN氏は単に「あたまがわるい」から自分のダブスタに気付かなかったのではない。HALTAN氏は自分の発言の偏りを認めようとしないから、ダブスタにはまりこんだのだ。厳しい言い方をすればHALTAN氏にとって「マスコミ内部の労働問題」に取り組んでいる人々のことなど、本当はどうでもいいのだ。彼にとって「マスコミ内部の労働問題」は自身の「サヨク嫌い」を正当化するための道具にしかすぎないのである。これを批判することは簡単である。例えば氏の

そういう人たちに対してなぜ誰も「では、そこで貴方は具体的に何をしてらっしゃるのですか?」と聞き返さないのでしょう? という素朴な疑問を抱いているわけなのですが、それはKYとして言ってはいけないことになっている、ということでよろしいのでしょうか?

という発言を逆手にとって次のようにいうことはできる。

林氏たちに対してなぜHALTAN氏は「では、そこで貴方は具体的に何をしてらっしゃるのですか?」と聞き返さないのでしょう? という素朴な疑問を抱いているわけなのですが、それはKYとして言ってはいけないことになっている、ということでよろしいのでしょうか?

と。しかし、この切り返しは無意味である。おそらくHALTAN氏にとっては「では、そこで貴方は具体的に何をしてらっしゃるのですか」という問いは、あくまでも自分の立場を正当化するためだけに使われるべき問いだからだ。HALTAN氏は「マスコミ内部の労働問題」には何の関心もない。ただNHKのワーキングプア特集が気に入らなくて、それにすり寄るサヨクが気に入らなくて、それを批判する道具としてそれは使われるべきものであって、自分に対して投げ掛けられるべきものではないのだ。もし氏が本当に「マスコミ内部の労働問題」に関心を持っていれば、言わずもがなの私への批判などせずに、「こういう事例もあるんです。あなたも関心を持ってください」と私を誘う形になったはずだ。さすれば私もHALTAN氏の取り組みに賛同し、「マスコミ内部の労働問題」にも関心を持っただろうし、ついでに大学における「労働問題」についても私からもいろいろと提起もしただろう。さすれば私とHALTAN氏の関係は「雨降って地固まる」となったかもしれない。実際大学におけるワーキングプア問題もそれ相応に深刻である。私みたいに塾講師という逃げ道を見つけられた人間はまだいい。非常勤講師は完全に需要の調整弁でしかない。正規の教師がCOEをとった時には、COEの研究拠点の教授の担当コマのうち、1・2回生担当という、あまり研究にプラスにならず、負担の大きいコマを押し付けられ、COEが終わると一方的にコマを取り上げられる。私は生活費のほぼ全てを塾講師で賄っているので、それほど困らなかったが、専業非常勤講師の人はどうやって生活していこうか、真剣に悩んでいた。事務でも派遣職員が大半を占める。大学の人件費削減の動きのために正規雇用がなくなりつつあるのだ。そのような現状を情報交換して、おたがいにエールをやり取りすることすらできたはずだ。しかし氏は私に「こうした問題すら語るなと言われれば、左派の存在意義そのものが自分のような「あたまがわるい」者には全く理解できなくなってしまうのですが・・・。」という言わずもがなの一言を付け加えて全てをぶち壊しにした。
これは別にHALTAN氏を批判しようとはもはや思っていない。私の問題関心は、なぜHALTAN氏がこのような言わずもがなの一言を付け加えずにいられなかったか、である。それはHALTAN氏が「マスコミ内部の労働問題」を自己の「サヨク嫌い」のための材料としか見なしていないからである。ではなぜ氏はそこまでサヨクが嫌いなのだろう。氏は「ネトウヨ」だからか?私の見方は違う。氏はいわゆる「ネトウヨ」では断じてない。私は氏を「転向左翼」と見ている。氏は「自分も昔は反核オタクだったり反米帝オタクだったりエコロジーオタクだったりした(面もあった)から、人のことは言えないかもしれない」と書いている。おそらく私よりもはるかに透徹した左翼だったに違いない。私は反核運動に携わったことはないし、反米帝運動にたっずさわったこともない。エコロジーに関してはむしろ引いている。心では反核、というのは、今の日本ではそれほど極端なメンタリティではあるまい。8月になれば「反核」一色だ。したがって核廃絶が望ましいな、と思っている私はおそらくHALTAN氏に比べると、めちゃくちゃヌルいサヨク、というよりも「中道君」に見えたかもしれない。実際私は学生の頃は中道右派あつかいされたことも多かった。非マルクス主義歴史学の研究者に多くを学んでいたからだ。マルクス主義歴史学に対してはそれこそ「階級闘争史観で何でも説明できるのか」という疑問をずっと抱き続けてきたし、それは少なくとも20年以上変わらない私の学問的立場である。
HALTAN氏はおそらく私よりもはるかに深く、真剣に左翼と関わり、それゆえに左翼に絶望することがあったのだろう。そして転向し、しかし左翼的メンタリティは持ち続け、「むしろ実生活では「サヨク」扱いされることの方が多い人間だったんだけどね。左も右も嫌いだ、ってそんなに難しいスタンスかねえ?」というスタンスに落ち着いたのだろう。だから私がHALTAN氏のサヨク嫌いを批判するのは、ある意味無責任なことなのだ。氏が「マスコミ内部の労働運動」も自己のサヨク嫌いのための正当化のための道具としかみなしていないことを批判するのは、ある意味思いやりに欠けるのかもしれない、と思ったりした。当たっている、という自信はない。