鎌倉時代の「陸奥守」

調べてみた。細川重男氏の『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、1999年)の巻末の「鎌倉政権上級職員表」をもとに書き出したら、ウィキペディアにも載せられていたOTL。
一応年代別に挙げておく。

人名 在任期間 在任中の役職 最終役職

大江広元 1216年1月27日〜1216年11月10日 政所別当
北条義時 1217年12月12日〜1223年8月16日 執権
足利義氏 1224年〜?
北条重時 1249年6月14日〜1256年3月11日 連署
北条政村 1256年4月5日〜1257年6月12日 連署 執権
北条時茂 1267年10月23日〜1270年1月27日 六波羅北方
北条時村 1271年7月8日〜1282年7月14日(ウィキでは8月23日となっていたが、細川氏著書に依拠して修正)六波羅探題北方 連署
安達泰盛 1282年7月14日〜1284年4月4日 五番引付頭人兼恩沢奉行
北条業時 1284年8月8日〜1287年6月18日 連署
大仏宣時 1289年6月23日〜1301年9月4日 連署
大仏宗宣 1301年9月27日〜(1305年6月14日ウィキのみにあり) 六波羅南方 執権
大仏維貞 1314年10月21日〜1326年4月24日 無役 連署
在任期間不詳
足利泰氏
塩田国時
大仏貞直

在任期間不詳の人物のうち、足利泰氏足利義氏の息子なので、義氏から泰氏へは連続しているであろう。従って泰氏から北条重時に移っていると思われる。
この時期は北条氏に固定化されているわけではなく、就任しているメンツを考えても、御家人の序列の中でも一位の人物に与えられていたのではないだろうか。
北条重時陸奥守に任官した時から風向きが変わる。従って重時の任官以降を第二期と考えていいだろう。この時期になると北条氏の中でも序列の高い人が任官していることがわかる。
北条重時、政村と連署が続き、六波羅北方の時茂、時村、外戚の最有力者泰盛をはさんで宣時と連署が任官している。連署あるいは準ずる一門の有力者=陸奥守ということになる。ちなみに執権は相模守か武蔵守。得宗が相模守で、得宗以外の執権の場合は武蔵守であることが多い。
宗宣が陸奥守に任官した時には六波羅探題南方であった。「陸奥守=連署」という図式が崩れたのである。宗宣の嫡子の維貞が陸奥守に任官するのも六波羅探題南方に就任する直前で、四番引付頭人を辞したばかりであった。この時期には「陸奥守=大仏家」となっているのである。この時期を第三期としたい。なお鎌倉時代最後の陸奥守も大仏家の貞直である。貞直は宗宣の弟の宗泰の子で二番引付頭人を務めた。
問題は塩田国時である。塩田国時は塩田義政の子で、1307年に二番引付頭人としてその名が見え、1311年に一番引付頭人、1313年に辞し、1333年幕府滅亡時に自害している。塩田義政は連署にまで昇進したが、北条時宗と深刻な対立を引き起こし、信濃国善光寺に出奔、その後は塩田荘に隠棲する。北条重時の子どもで、長時・時茂死後の極楽寺流を代表する人物であった義政の隠棲の持つ意味は、極楽寺流の没落、ということになるだろうか。義政に代わって極楽寺流を支えたのはまだ若い北条義宗であったが、義宗も急死し、極楽寺流の影響力はかなり減退する。
問題はいつ、国時が陸奥守になったか、ということであるが、可能性は業時から宣時の間の1287年6月18日から1289年6月23日の間か、宗宣から維貞の間の1305年から1314年の間か、であろうが、私は後者と思う。というのは業時も宣時も連署の時に陸奥守になっていて、まさに「陸奥守=連署」の時代に連署の子息とは言え、連署に昇進する目のない国時に「陸奥守」を名乗らせるとは考えがたい。六波羅探題南方であった宗宣が陸奥守に任官したことを契機に「陸奥守=大仏家」となるのだが、その間の短期間塩田家にもまわったのではあるまいか。維貞が任官適齢期に達するまでの中継ぎとして、大仏家とほぼ家格が等しい塩田家に一時的に「陸奥守」を回したのであろう。維貞の死後、まだ幼い家時(陸奥右馬助を名乗っている)が「陸奥守」適齢期に達するまで、維貞の従弟の貞直が一時的に「陸奥守」を継承し、その時に鎌倉幕府が滅亡したため、分かりづらいが、この時期には大仏家嫡流の家職となっていたのではないだろうか。
まとめると、鎌倉時代における「陸奥守」の性質は三期に分けられる。
第一期 大江広元から足利泰氏までは御家人の序列の高い人に与えられる称号であった。これは「陸奥守=御家人序列一位」期とでも定義できよう。
第二期 北条重時から北条業時までは連署もしくはそれに準ずる人、つまり北条一門の重鎮に与えられる称号である。時茂は極楽寺流の嫡流で、六波羅探題北方を務め上げた跡は連署になる可能性があったのだろう。ただ時茂は六波羅探題北方在職中に死去するので、連署になることはなかった。また安達泰盛時宗・貞時の外戚として一門の重鎮に準ずるという意味で「陸奥守」を名乗ったのだろう。この時期は「陸奥守=連署」期と定義できよう。
第三期 大仏宣時が連署に就任した時に「陸奥守」となったのだが、その後宣時の子孫に伝えられることになった。つまり「陸奥守=大仏家の家職」期と定義できよう。
で、問題は「だからどうした?」。