大佛流北条氏概論

大佛(おさらぎ)流北条氏は北条義時の弟北条時房に始まる時房流北条氏の一つである。以下細川重男氏の『鎌倉政権得宗専制論』に従って述べていく。
時房には多くの士女がおり、そのうち要職に就任するのは時盛の子孫の佐介家、資時流、時村流、朝直の子孫の大佛流、時直流である。時房の長男時盛の子孫の佐介家は時盛の後半生から大きく没落する。朝直との時房流惣領家の座をめぐる争いに敗北したためと考えられている。時盛の六男の時員の子、つまり時盛の孫の時国の代に六波羅探題に就任し、その後見役に時盛が就任することになって復活するが、時宗死後の混乱の中で時国は処刑され、時盛の次男の時光は佐渡流罪となって、大きく勢力を減退させる。その後は大佛家の下風にたって評定衆引付衆を出す家として存続した。
佐介家の没落と大佛家の主導権の掌握の大きなきっかけとなった「弘安七年事件」の解釈であるが、佐介家をどう考えるかで議論が分かれる。佐介家が基本的に鎌倉幕府の要職から外れていた状況から考えれば、時国の六波羅探題就任は大きなチャンスであった、という細川氏の指摘に従いたい。以下、細川氏の論にしたがって述べると、時国が六波羅探題に就任した時期が安達泰盛平頼綱の拮抗状態の中で、安達泰盛の勢力が伸びていく時期であること、大佛宣時が霜月騒動以降に連署に就任していることを勘案すると、時国事件は安達泰盛ー佐介家と平頼綱ー大佛家の最初の衝突であり、時光事件は時国事件に対する佐介家の復讐とその挫折であったのではないか、と細川氏は指摘する。その衝突の果てに霜月騒動があり、大佛宣時が連署に就任して、大佛家の隆盛が決定的になるのである。
大佛家にも四流があり、嫡流が宣時の嫡男宗宣流である。宗宣は連署の父宣時の引退を受けて陸奥守を継承し、宣時ー宗宣と「陸奥守」が大佛家の家職となるのである。宣時は11代執権となり、嫡子の維貞やその子の家時の代には極端な若さで叙爵、要職就任を果たすことになる。大佛家の全盛期である。維貞は連署に就任するが、43歳で病死、「陸奥守」と大佛家の家督は維貞の従弟で引付頭人であった大佛貞直に移る。しかしこれはあくまでも中継ぎであって、実際には貞直の時代に鎌倉幕府が滅亡したため、よく分からないが、維貞の嫡子の家時が18歳で評定衆就任、さらに1333年には得宗庶流の阿蘇治時(時頼弟時定の曾孫、ちなみに治時の祖父定宗の画像が今日「時宗画像」として誤って伝えられている)と並んで鎌倉幕府軍大将として22歳で上洛している。陸奥右馬助という呼称からも明らかなように、貞直引退後は「陸奥守」すなわち大佛家家督を継承することになっていたのだろう。