鎌倉時代の「陸奥守」2

鎌倉時代における「陸奥守」の性質を三段階に分けると次のようになる。
第一期 大江広元北条義時足利義氏足利泰氏のように御家人序列一位に与えられる。
第二期 北条重時北条政村、北条業時、北条宣時のように連署もしくは北条時茂安達泰盛のように連署に准じる人に与えられる。
第三期 大佛宗宣、大佛維貞、大佛貞直(IMの都合上、大仏と出すのが面倒なので以降この表記にする)のように大佛流北条氏の代表者に与えられる。
問題はそれぞれの段階に即して立てられる。
第一期に関しては、たとえばなぜ「陸奥守」なのか、ということになろう。「陸奥守」というのが実質的な意味を持っていたのは12世紀末の藤原秀衡までで、秀衡に至る「陸奥守」は、「日本」の最前線地域だったことは以前言及したことがある。陸奥国は「日本」の「辺境」であり、「境界領域」を含み込んでいたのだ。それは北アジアネットワークにつながる最前線であった。その「辺境」を手に入れた鎌倉幕府にとって、陸奥国のトップである「陸奥守」はシンボリックな意味合いを持っていたのだろう。実際陸奥国は守護を設置せず、得宗が支配した地域であった。
第二期に関しては、「連署」という地位が問題になろう。とともに北条氏における官位による格付けが行われる時期でもあろう。執権は武蔵守か相模守、連署陸奥守というような形式が整えられる時期であること、特に北条重時は第一期と第二期の橋渡しをする存在であり、いろいろ考えられそうだ。安達泰盛の「陸奥守」も議論になるところだ。泰盛の「弘安徳政」の実施と霜月騒動に至る政治過程を検討する際に「陸奥守」任官は避けて通れないだろう。私が着目するのは北条時茂の「陸奥守」任官だ。時茂は連署に就任する手はずが整っていたのではないか、と私は考えている。時茂はそれを果たさずに急死し、その後は北条時輔六波羅探題を切り盛りするのであるが、二年間後任は発令されなかった。時茂が長生きしていてもおそらく時茂が評定衆入りし、連署に就任した後には、本来は時輔が六波羅探題を背負うはずだったのではないだろうか。しかし北条時宗はそれを喜ばず、北条義宗を送り込み、さらに義宗に時輔を討たせる。そこに何があったのか、を考える材料にはなる。実際時輔粛正をだれが主導したのか、については未だすっきりした説明はなされていない。安達泰盛の立場はどうだったのか、が全く明らかにされていないからである。そこを考えるきっかけになるかもしれない。
第三期に関しては大佛流北条氏の台頭というテーマで考えることが出来る。大佛流北条氏は鎌倉時代後半に勢力を伸ばす一門である。本来一番得宗から遠い血筋に当たっていた大佛流が勢力を伸ばす過程は、大佛流に近い佐介流の没落と軌を一にしている。佐介流の没落は時宗死後の混乱の中で決定的になり、14世紀に入ると台頭著しい大佛流が、この時代の鎌倉幕府を考えるのに非常に重大な鍵を握っているような気がしている。