鎌倉時代の「陸奥守」北条政村

北条政村北条義時の子で、伊賀の方の腹。同腹に金沢実泰がいる。伊賀の方が伊賀氏の乱で追放された時に、泰時は伊賀の方の子どもである政村と実泰をかばったが、実泰は精神的圧迫から出家し、実時に跡を継がせ、出家隠遁する。一方、政村は和歌に耽溺する一方で、政治的に地位を上昇させ、重時の子で6代執権長時の死を受けて7代目の執権に上り詰める。得宗時宗が8代執権に就任すると、連署にもどって若年の時宗を補佐する。
政村は常陸大掾に26歳で任ぜられて以降、式部少丞、を経て叙爵、右馬助、右馬権頭、従五位下正五位下ときて35歳の1239年に評定衆、1244年に従四位下、45歳の1249年には一番引付頭人となり、1256年52歳で連署。その直後に陸奥守に任ぜられる。翌年には相模守になる。重時とは逆の動きを示していることが興味深い。重時の場合はまず相模守になり、その後に陸奥守となっているが、政村の場合は先に陸奥守になってから相模守に転じている。
1264年に執権に就任後には従四位上になり、正四位下左京権大夫が極官。1268年には執権から連署に戻り、1273年に出家し直後に69歳で没す。
政村の陸奥守は明らかに連署と連動している。連署に就任するのが1256年3月30日で4月5日には陸奥守となっている。連署陸奥守が明らかに連動している。そしてさらに相模守になっているのは、相模守の意味合いがかつて重時が相模守に任ぜられた時とはいささか異なっているのだろう。経時は執権の時には武蔵守であったが、時頼は執権就任後に相模守になっているのが国守の始まりで、このころから相模守=北条氏の序列一位となっていくのだろう。相模守と陸奥守の地位が逆転しているのである。つまり重時の時は陸奥守が一位だったのだが、政村が就任した時には相模守か武蔵守が一位、陸奥守が二位か三位ということになるのだろう。