鎌倉時代の「陸奥守」北条時茂

北条時茂北条重時の子で、兄弟に6代執権長時、連署義政、業時がいる。彼の子孫は常葉家と呼ばれ、六波羅探題北方を多く出す家柄である。
時茂は1256年、16歳で六波羅探題北方に就任。兄の長時が執権に就任するために鎌倉に帰ったのと交替である。重時ー長時ー時茂と極楽寺流で六波羅探題北方が受け継がれているのが分かる。その背景として長時・時茂とも母が平時親の女ということも関係あるだろう。朝廷とのパイプがあったからこそ六波羅探題北方からそのキャリアをスタートさせる、というのは分かりやすい。
翌年の1257年には左近将監になる。1267年、在任十年で陸奥守になる。しかし三年後に京都で死去。
時茂の陸奥守就任は、六波羅探題の次は評定衆連署と昇進するルートが想定されていたのであろう。時茂が若死にしたことで、そういうことはなくなったし、彼の子孫は引付衆から評定衆を経て六波羅探題北方をほぼ上限とする家系となる。しかし時茂自身は六波羅探題からそのキャリアをスタートさせている所からみると、本来は得宗や赤橋家と並ぶ家系となる可能性が否定できない。その意味で時茂の陸奥守は北条氏の中での序列上位を示す表徴だったのだろう。