得宗専制論分析への視角

鎌倉幕府は大きく三段階に分けられる、というのが通説である。京下りの官僚層に囲繞された鎌倉殿の独裁体制が敷かれ、源頼朝を支えた関東の武士団は政治のプロセスから排除された段階である。頼朝死後の源頼家源実朝をめぐる暗闘は、その矛盾が噴出したものであり、その暗闘を通して成立した北条氏の執権政治は、関東の有力武士団を評定衆に任じ、その合議体をリードする存在として執権が存在するという「執権政治」の段階が到来する。その後は北条氏の勢力が強まり、有力武士団は次々と滅ぼされ、北条氏の嫡流が突出する「得宗専制」の段階に至り、鎌倉幕府は滅亡の時を迎える。
これをめぐっては様々な議論がある。そもそも執権政治における合議、と言っても、合議体の構成員の中で圧倒的に有力な執権がヘゲモニーを握っている状態を果たして「合議」と言えるのか、という「執権政治=合議」に疑問を呈する見解もある。「コリドラスディスカスの飼育」や「昭和の鉄道模型をつくる」に続く私の興味関心に引きつけて言えば、「得宗専制政治はいつ成立したのか」という議論が存在する。
成立時期を一番早く考えるのが北条時頼の時期である。時頼は「深秘の沙汰」「寄合」によって様々なことを決定した。ようするに秘密会議というか、私的な諮問機関である。その秘密会議のメンバーは、例えば自分の母の実家安達氏や、自分の祖母の実家の三浦氏、自分の補佐役の北条実時、一門の長老格の北条政村などである。その後時頼が執権を北条長時に譲った後も実権を手放さなかったことから、執権と分離した「得宗」の地位に権力が付随する「得宗専制」が成立した、という考えである。多くの論者が時頼時代に出発し、モンゴル戦争を戦う中で北条時宗の時代に発展し、最後まで残った「豪族的」な「外様」の「有力御家人安達泰盛を滅ぼした霜月騒動で完成する、とみている。
細川重男氏は『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館)において「得宗専制」の成立時期に対する学説が乱立する状況に対し、「得宗専制とは何か」という問いを提起する。細川氏は「専制」について「専制を行う主体自身に権力が集中する場合」(主体型専制)と「専制を行う主体を含めたシステムが機能し、主体の権力を構成する場合」(システム型専制)に分けて考えることを提唱する。そして成立期の北条貞時政権や北条高時政権を後者と考える。細川氏は「寄合」を三期に分類し、第一期は得宗家の私的会議、第二期が得宗の個人的諮問機関、第三期が鎌倉政権の正式機関であったと位置づけた。そして第二期は時宗の主体型専制の時期、第三期は霜月騒動を経て寄合が公的な最高議決機関となった、とする。貞時の「改革」は寄合に奪われた実権を得宗側にとり戻ることを目的としていた、と評価する。
一方そもそも「得宗専制」体制が存在しなかった、という説もある。「得宗専制」のメルクマールとして、「寄合」の成立、御内人の形成、一門の統制、という3つを「得宗専制」という概念を提唱した佐藤進一氏は述べているのだが、秋山哲雄氏は『北条氏権力と都市鎌倉』(吉川弘文館)の中で、一門は自律性をもっていた、とし、「得宗専制」という概念自体に疑問を呈する。
私が今考えているのは、北条一門の検討である。特に貞時政権末期から高時政権にかけての北条一門の動きを追っていくことは無駄ではあるまい。貞時政権末期にはあれだけ派手に動いたとおぼしき北条一門が、高時政権では長崎高綱と安達時顕に圧倒されるのはなぜなのか。
私には一つ疑問がある。貞時が執権を退任後、師時・宗宣・煕時・基時と執権が移る。彼らが基本的には貞時から高時への中継ぎであることは論をまたない。しかし一様にそのような側面をのみ見いだして、「実権は御内人に握られていた」だけでいいのだろうか。私にはそれぞれ違う背景が存在するように思えて仕方がない。師時は比較的はっきりしている。貞時の従弟として、貞時の主体型専制をサポートする役割を負わされていた、という理解に従いたい。宗宣と煕時については、従来は「実権は御内人に握られ」と評価されてきた傾向がある。しかし細川氏の嘉元の乱の理解に従えば、煕時の祖父時村と宗宣は貞時や師時や宗方とまさに得宗専制体制を樹立するか否かで文字通り死闘を演じているのである。彼らの執権就任が単なる御飾りものであったとは思えない。実力で貞時の「改革」を阻止した実力に見合う地位として連署・執権が選ばれたのである。連署・執権はそれ自体ではいかなる地位も権限も担保しない。従って宗宣が執権在任半年で死去し、連署の煕時に横滑りしたにも関わらず、煕時は連署を置かないまま三年で急死したことで、宗宣・煕時がつかんだ執権・連署の職は14歳になろうとする高時への中継ぎの地位になってしまうのである。
私が注目したいのは、大佛氏という、北条氏の中でも一番嫡流から遠い庶流中の庶流から執権に上り詰めた宗宣という人間であり、その基礎を作った宣時という人間である。大佛氏が鎌倉幕府末期にいたって急速に叙爵年齢が低下し、地位が向上していることがうかがえるが、それを実現するための彼らの能力に着目しなければならない。
と、まあこういう感じで論文が書けたらいいかなぁ、と、とらぬたぬきの皮算用をしているわけだ。