北条貞時はなぜ執権を辞したか
正安3(1301)年8月22日、九代執権北条貞時は執権を辞任し、翌日出家した。法名は崇暁(後に崇演と改む)。
突然の執権の退任にはさまざまな原因が考えられる。同年の正月22日に名越時基に嫁していた貞時の娘が死ぬ。それが原因かもしれないという意見がある(『北条氏系譜人名辞典』)。しかし連署の大佛宣時まで一緒に退任し、幕閣が大幅に入れ替わることを説明できない。
貞時の後任には従弟の師時(時宗の弟宗政の子)が二番引付頭人から昇格、連署には北条時村(7代執権政村の子)が一番引付頭人から昇格する。越訴頭人が復活し、四番引付頭人から北条宗方(時宗の弟宗頼の子)が昇格、もう一人の越訴頭人には長井宗秀(大江広元の子孫で元引付頭人)が返り咲いた。時村の跡には極楽寺流赤橋久時が評定衆から一番引付頭人に昇格、二番引付頭人には大佛宗泰(宣時の子)が三番引付頭人から昇格、時村の孫の煕時が評定衆入りするとともに四番引付頭人になる。三番引付頭人には引付衆から名越時家が昇格、五番引付頭人には越訴頭の長井宗秀が兼任することとなった。そして新たな引付衆には大佛貞房(宣時の子)が加えられた。
宣時の嫡子の宗宣はその時六波羅探題南方で、永仁の徳政令を西国に適用させるために寺社本所、就中朝廷と折衝する、という任務を遂行していた。
ちなみに鎌倉幕府の機構では引付衆が一つのポイントになる。北条氏の一門は引付衆で裁判実務を担当し、引付衆で実務経験を積んでから評定衆入りして政界デビューとなる。引付衆を経ずに評定衆になれるのは得宗一門つまり時宗・宗政・宗頼の子孫と、赤橋家つまり6代執権北条長時の子孫に限られていた。この二つの一門は家格が特に上だったのである。
鎌倉幕府の最高権力者は執権である。今の政府に喩えれば内閣総理大臣となるだろうか。幕府の行政を司る政所の長官と軍事を司る侍所の長官を兼任する。執権を補佐するのが連署である。基本的に鎌倉幕府の命令書である関東御教書は、執権と連署の署名で出されている。「連署」という名称は、執権に「連名」で「署名」するところから来ている。
執権は、北条義時・北条泰時・北条経時・北条時頼と継承されてきた。この家系を祖である義時の号を採って「得宗」と呼ぶ。時頼が重病に陥り、嫡子時宗が未だ若年であったことから、時頼は一門の北条長時に「眼代」として執権職を譲る。「得宗」と執権が分離した初めである。長時の後は、泰時の弟である北条政村が就任し、時宗が18歳になったのを契機に得宗の時宗が執権に就任する。時宗の死後は嫡子貞時が継承するが、貞時には兄弟がいなかったので、貞時を一門として補佐したのが、貞時の従弟の師時と宗方である。時宗を補佐した弟の宗政と宗頼の子どもがそのまま貞時を補佐する形をつくっていた。時宗・宗政・宗頼の子孫を得宗一門と呼ぶ。得宗の外戚は、時頼以降は安達氏が務めるのが伝統である。時氏に安達景盛の娘が嫁いで経時・時頼を生み、時宗に安達義景の娘が嫁いで貞時を生む。義景の子の安達泰盛は時宗を支えるも、平頼綱との戦いに敗れ、安達氏は大きく勢力を減退させるも、時宗後室にして貞時の生母の堀内殿の威光で族滅は免れた。貞時の妻は安達泰盛の甥の安達泰宗の娘で、高時・泰家の二人を生んでいる。安達氏はしばしば「外様御家人」「豪族的御家人」扱いされるが、明らかに得宗一門に入れた方が、実態に即している。得宗の被官が御内人である。御内人は侍所の次官である所司を務める。平頼綱が有名である。頼綱が滅ぼされた後は、頼綱の甥の光綱、その子の高綱、さらにその子の高資と受け継がれる。ひと括りに「得宗」という場合は、得宗個人である以上に、得宗家とその一門や外戚、そしてその御内人からなる組織をいう。
執権は評定衆の議長役を務める。評定衆が一応の最高意思決定機関である。評定衆の中から引付頭人が選ばれる。ほとんどが北条一門から選出されるが、安達氏や長井氏のように北条一門以外から選出されることもある。これが閣僚というところであろうか。一番引付頭人が事実上のナンバースリーである(ナンバーワンはもちろん執権、ナンバーツーは連署)。ただ引付頭人は執権の直属の下部組織ではないため、しばしば執権権力を掣肘することがある。反得宗の北条一門が引付頭人を多く占めると、反得宗勢力の巣窟ともなり得る。しばしば引付頭人及びその影響下にある引付衆が執権の権力を制約する役割を担うので、執権は引付衆を突如廃止することもある。
よりややこしいのが越訴方である。越訴とは再審のことである。今で言えば最高裁判所のようなもので、原判決に不満のあるものは、越訴することができる。しかし越訴方もしばしば廃止されたり設置されたりを繰り返している。永仁の徳政令においても一番最初に言及されているのが越訴であり、永仁の徳政令では肝が後年有名になる「債務破棄」(いわゆる徳政令)ではなく「越訴廃止」にあることは、以前言及した。越訴は執権の意に対しても異を唱えることが仕事である点で、執権の権力の掣肘機関であることは明白である。だからこそしばしば廃止されたり、復活したりを繰り返すのである。
鎌倉幕府の後期においてはしばしば「得宗専制」なる言葉で理解されるように、得宗(北条氏の家督)による専制政治が敷かれていたのであるが、その時にあってもなお、得宗権力の掣肘機関が設置されていた、というのは興味深い。得宗は自由気ままに自分の権力を振るえたわけではない。これは日本の歴史上しばしばみられたことであり、たとえば王朝国家では、天皇とその直属の官僚機関である蔵人と太政官とはお互いに牽制しあうように作られていた、天皇の命令書には天皇と太政官の署名が必要であった。両者の意思が合致しないと、政策の遂行は無理なのである。後に公家の合議機関である陣定がおかれ、そこでの合議が常に天皇権力を制約するように動いていた。
鎌倉幕府でも将軍とその直属の官僚機構を制約するために評定衆が設置されていたし、室町幕府では今谷明氏が「重臣会議」と名付けた有力守護大名の合議機関があった。そこで出される宿老意見状は室町殿と言えども無視はできなかった。江戸幕府では老中の合議が行われていた。
権力者が暴走しないように常にお互いに制約しあう仕組みが日本の歴史上の政治機構では機能していたのである。政治史を検討する際には、最高権力者の動きだけではなく、それを制約する機構の動きにも目を配らなければならない。この例で言えば、最高権力者である北条貞時を制約するのはだれか、という問題である。引付衆や越訴頭人の人事をめぐる動きは、貞時と反貞時の権力機構をめぐる角逐でもあるだろう。引付衆や越訴方の廃止と復活は、貞時と反貞時派がお互いに牽制しあったことの結果である。
それでは反貞時派とは何か。海津一朗氏は貞時の執権辞任を、8月21日に出現した彗星によると推定している。そして氏は「北条貞時の場合は、権力の絶頂にあり、朝廷・幕府内に退陣を迫るような反対勢力は全く見られない」とし、貞時が晩年政務への熱意を失い、中原政連に批判されたことについても「権力の絶頂のさなかに出現した彗星が、政務への情熱を失わせるほどにも大きな精神的痛手となっていたことがうかがわれよう」と述べている。
しかし実際には貞時は出家後しばらくは政務に関わっている。貞時は失意から出家したのではなかったのである。そして貞時には大きな反対勢力が存在していた。それが何者かが、次の問題である。
時政ー義時ー泰時ー時氏ー経時
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ー時頼ー時宗ー貞時ー高時
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ー宗政ー師時
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ー宗頼ー宗方