「諸国郡郷庄園地頭代、且令存知、且可致沙汰条々」5 追加法287

日本には奴隷を労働力として人身売買した歴史はない、という意見がある。戦前に単一民族説を強く打ち出し、アジア主義を否定し、大日本帝国に弾圧された津田左右吉はその典型例だろう。津田は日本民族はきわめて均質的な単一民族で、日本列島に数万年も前から純潔を保って生活してきた、と考えた。アイヌ民族は外来からの侵略者というのが津田の見解である。津田は徹底した反中主義者で、それゆえにこそ大日本帝国ににらまれ、弾圧された。戦前に弾圧された津田は戦後に大日本帝国と戦った、というイメージを持たれたし、事実生半可なマルクス主義者よりも徹底して大日本帝国と戦ったのは事実だろう。そして戦後民主主義とともに単一民族説は日本人論の通説となる。というのが小熊英二氏が『単一民族神話の起源』(新曜社)で主張したことであった。
津田は奴隷制社会の実在を否定したのは、研究史上押さえなければならないところであるが、その背景には津田の強固な単一民族論があったのである。日本人が同じ日本人を奴隷として人身売買するはずがない、というのが津田の意見であった。しかし中世の文書を繙くだけでも津田の議論は成り立たない暴論でしかない。厳しく言えば信仰告白でしかない。最前から出ている「下人・所従」というのは地頭や「百姓」(一般庶民)の私有物である人間である。合法的に人身売買される身分である。
安良城盛昭は「奴隷と犬」(同著『天皇天皇制・百姓・沖縄』吉川弘文館、所収)の中で奴隷の特質について次の5つに分類している。「他人の所有の対象」「非所有主体=無所有」「被給養=非自立」「被給養=非自立の強制」「過酷な支配」。「御成敗式目」を繙くだけでも例えば41条には「奴婢雑人事」とあって、そこでは源頼朝の先例にならって、奴婢雑人の所有権をめぐる訴訟についてのガイドラインが示されている。奴婢を他人にとられ、十年間訴訟などのアクションを起こさない場合は、現時点でその奴婢を占有している人に所有権が移る、ということである。あるいは奴婢の間に生まれた子どもの所有権をめぐる裁判の場合は、男子は父の所有者のもとに、女子は母の所有者のものになる、ということが示されている。『中世政治社会思想』上(岩波思想体系)を繙くだけでも「追加法」に「奴婢雑人法」というジャンルがあり、そこでは奴婢の所有権をめぐる訴訟に関するガイドラインが載せられている。日本に奴隷を労働力として人身売買した歴史はない、というのは全くの幻想でしかない。
鎌倉幕府を悩ましていたのは、「百姓」を地頭が奴隷化することであった。一つは地頭が目先の利益にとらわれて「百姓」を際限なく奴隷化すると、年貢が滞るという問題もあった。もう一つは、朝廷との関係である。地頭は一円的に現地を支配しているわけではない。荘園には当然領家や本家も権利を保持しているのであり、地頭が荘園の「百姓」を一方的に奴隷化することは、領家や本家、さらにはその上にある朝廷ともめる原因となるのである。ここまで検討してきた式目42条や追加法289もその流れの中で出てきた法令である。
今から検討する追加法287も「百姓」の奴隷化の動きと関わっている。
本文。

一 取流土民身代事
右、対捍有限所当公事之時、為令致其弁、令取身代之条定法也。而或依少分之未進、或以吸毛之咎、取流身代之条、尤不便也。縦雖歴年月、償其負物、請出彼身代之時者、可返与之。又無力于弁償、可令流質之旨、其父其主令申之時者、相計身代直之分限、相談傍郷地頭代、給与彼直物、取放文之後、可令進退也。

読み下しと解析。

一 土民の身代を取り流す事
A 右、限りある所当公事を対捍するの時、その弁を致さしめんがため、身代をとらしむるの条は定法也。
B 而るに或いは少分の未進に依り、或いは吸毛之咎を以て、身代を取り流すの条、尤も不便なり。
C1たとひ年月を歴るといえども、その負物を償い、かの身代を請け出すの時は、これを返し与えるべし。
C2又弁償に力なく、流れ質せしむべきの旨、その父その主申さしむるの時は、身代の直の分限を相計らい、相傍の郷地頭代に相談じ、かの直物を給与し、放文を取るの後、進退せしむべきなり。

まずAの部分では「所当公事」つまり税を「対捍」つまり滞納した場合、その担保として債務者本人もしくは妻子を身代を取り流すこと(税未納による債務奴隷化)についてはは「定法」とある。日本の歴史上奴隷が存在しなかった、というのは信仰告白の域にすぎない暴論である。この法令でも身代に取り流すことそのものを否定しているわけではない。
Bでは行われている地頭非法が述べられている。小額の未納やちょっとした罪を取り上げて債務奴隷化するのはよくない、とされている。地頭や地頭代が機会あらば自分の私有財産を増やそうと言いがかりをつけて「百姓」を債務奴隷化しようとしていたのだろう。鎌倉幕府にとっては生産関係における「百姓」の経営を破壊しかねず、また他の権利者とのもめ事の原因になりかねない、地頭・地頭代による「百姓」の債務奴隷化には規制を加えざるを得ない。
CではAの定めに従って債務奴隷化された人の扱いについて述べている。C1では債務を返済した場合の対処、C2では債務を返済できなかった場合の対処を述べている。
C1では「年月を歴るといえども」債務を完済した場合には奴隷の境遇から解放せよ、ということである。式目41条では「奴婢雑人事」という条文の中で「その沙汰なく十箇年を過ぎば、理非を論ぜず改め沙汰に及ばず(奴婢に対する自己の所有権を主張する訴訟を提起することなく十年を過ぎれば、理非を論ぜず帰属について現状を変更しない)」とある。十年という年期が一応あったのだろう。年次未詳の追加法720にも41条を引いて「訴訟や交渉などを行わず十年を過ぎたので質人(一般債務による債務奴隷)は現在の所有者の物とする」とある。その点この追加法287においては年期を限っていない点に特色がある。時頼政権の方針として債務奴隷化についてはできる限り抑制したい、という意思があったのだと思われる。
C2では債務を返済できなかった場合の手続きで、まず父やもとの「主」が申し出ることが条件だったようだ。「父」が申し出る場合は子どもの人身売買が想定される。「主」というのは、債務の担保が「所従」つまり奴隷である場合である。「妻子・所従」とある「所従」も「奴婢雑人」の別の言い方である。「身代の直」というのは自分自身の値段、ということで、その値段を計算し、「直物」つまり人身の売価から未済分の債務を差し引いた額を支払い、「放文」つまり売り主の所有権の放棄を証明する書類を取得しなければならなかった。売買契約書のことと考えれば分かりやすいだろう。
ちなみに追加法114条に「人倫売買」に関する関東御教書が載せられている。寛喜2(1230)年の夏は寒冷の上に大風雨によって大凶作になった。いわゆる寛喜の大飢饉である。その時に人身売買の禁令を一旦緩和し、延応1(1239)年に再び人身売買禁止令を出している。その後も追加法142、156、178、244、304、309、393、709、733、736と現存している。これだけ何回も出されている背景には人身売買が当該の社会においては普通に行われていたことを示す。
なおここで禁止されているのは経済行為として人を「勾引」(幼児や娘などを、だますなどしてむりやりにどこかへ連れて行くこと−『時代別国語大辞典 室町時代編』)して売買することであって、人を奴隷とすること自体ではない。正当な手続きを踏めば人は債務奴隷として私有財産編入され、労働力として使われるのである。