「諸国郡郷庄園地頭代、且令存知、且可致沙汰条々」9 追加法291

前回も少し触れたが、日本には歴史上労働力としての奴隷がいなかった、ということを根拠として日本を単一民族とする議論がある。津田左右吉がその代表的な論者で、津田はアイヌについてはあとから入ってきた侵入者である、と主張している。単一民族説自体は津田にみられるように戦前から存在する論調だが、戦前には完全に少数説であった。津田はアジアとの連帯を拒否し、中国を蔑視する『シナ思想と日本』を出しているが、津田が極右の民間史学者を名乗る政治ゴロである蓑田胸喜に目をつけられたのは、実はこの『シナ思想と日本』であったという。津田と言えば我々は『古事記日本書紀の新研究』を連想するし、実際出版法違反に問われたのはそちらだが、これ自体は大正時代に出版されていた著書であり、直接に津田に官憲や軍部に密着した極右活動家に目をつけられたのは、『シナ思想と日本』において表明されたアジアとの連帯を否定する議論だった。単一民族論が主流となるのは戦後である。単一民族であるがゆえに平和な日本、という幻想は日本国憲法における平和主義の理念とも合致して、むしろ戦後に主流となるのである。
しかし日本の歴史を単一民族であるがゆえに平和だが、ある意味排外的である、という歴史像は今や破綻している、と言っていい。日本における奴隷制の研究も少しずつ進展している。
今回は奴隷をめぐる訴訟に関する条文をみていく。
本文。

一 奴婢相論事
右、無其沙汰過十ケ年者、不論理非、不及沙汰之由、被載式目畢。而所領知行之間、召仕百姓子息所従等之後、称過十ケ年、永令進退服仕、或令移他所之時、号所従相懸煩云々。事実者、無其謂、付田地召仕百姓子息所従等事、縦雖歴年序、宜任彼輩之意。

読み下しと解析。

一 奴婢相論の事
A 右、「その沙汰なく十ケ年を過ぎば、理非を論ぜず沙汰に及ばざる」の由、式目に載せられおわんぬ。
B しかるに所領知行の間、百姓の子息・所従等を召し仕えふるの後、十ケ年を過ぐと称して、永く進退服仕せしめ、或いは他所に移らしむるの時、所従と号して煩いを相懸くと云々。
C 事実たらばその謂われ無し。田地に付して召し仕ふる百姓の子息・所従等の事、たとひ年序を歴るといえども、よろしくかの輩に任すべし。

Aの部分は式目41条の「その沙汰なく十ケ年を過ぎば、理非を論ぜず沙汰に及ばざる」を受けている。奴婢に対する自己の所有権を主張して提訴することなく十年を経過した場合は、その事情の如何を問わず現状を変更しない、という法の確認である。
Bでは式目41条の規定を悪用している例が問題視されている。前年の建長4(1252)年には「奴婢相論事、雖過十ケ年、就所領召仕百姓等者、非進止限矣」という追加法275条が出ている。これは本来奴婢の所有者同士の訴訟に関する規定であったはずの十ケ年条項を悪用して、十年間召し使った場合でも、所領内の「百姓」に関しては適用しない、という条文であるが、その275条をさらに詳しく述べたのがこのBの部分である。「百姓」の子息や所従を召し使う場合の問題が定められている。「百姓」にも「所従」という隷属民を所有する層があり、その「百姓」の「所従」を地頭が自分のものにしてしまう、ということが問題となっていたのだろう。子息の場合は、本来隷属民ではない「百姓」の子息を隷属民化しようという動きである。地頭代が「百姓」の子息を隷属民にしてしまう、という事例と、地頭代が「百姓」の隷属民を取り上げて自己の物にしてしまう、という事例が双方とも問題になっていたことになろう。
「他所に移らしむる」というのが解釈が分かれるだろう。「他所に移る」のが百姓なのか、地頭代なのか、が不明確である。「百姓」ならば、「百姓」には移動の自由があった、ということになる。地頭代であれば、地頭代が所領替えの時に、「百姓」の子息や所従を「百姓」に返却せずに自分の所領に連れていってしまう、ということになる。中世社会の実態とこの一連の法文の意味を勘案すると後者のことだろう。
Cではその違法性について触れている。「田地に付して」というのが難解だが、『中世政治社会思想』の頭注では「所領の知行を通じて。すなわち直接地頭代の人身的隷属下にない百姓」となっている。自分の所領支配を通じて支配−被支配関係にあるだけで、人心的隷属下にない「百姓」の子息や所従については、式目の十ケ年条項を適用しない、ということである。「かの輩」は元の所有者である「百姓」となるだろう。
「人身的隷属」というのは、自身の所有権すら自分で持たない人々のことで「奴婢」とか「下人」とか「所従」とかと史料上で表現されている人々のことである。彼らが自ら働いてためた金で自分の身柄を所有者から買い取る、という事例も『大乗院寺社雑事記』に記録されている。大乗院門跡の尋尊(一条兼良の弟)の愛童愛満丸の父親はそういう人だった、という。自身の身を買い受けた後、愛満丸の父は散所に編入され、興福寺支配下に入り、その縁で子息を門跡の愛童に差し出すことになったのである。
日本中世の「百姓」と言っても様々な層がいる。所従を所有する「百姓」は富裕な層なのであろう。「極楽寺殿御消息」の74条にも「又百姓の従者なればとて、いやしみしかるべからず」とある。「百姓の従者」がいることがうかがえる。この「従者」と式目・追加法の「奴婢」「所従」とは同じものだろう。