「新御成敗状」の背景−仁治三年正月−

追加法172から199までは「新御成敗状」という題が付けられた一連の法令である。
出された項目は以下の通り。

「神社仏寺事」
「六斉日殺生事」
「鷹狩事」
「殺害、山賊、海賊、夜討、強盗、窃盗、刃傷、放火、殴人等事」
「年貢所当事」
「官爵事」
「人倫売買事」
「悪口、謀書、懐抱他人妻、扶持罪人、逃失召人事」
「出挙利分事」
「奴婢雑人事」
「百姓逃散事」
「給田畠売買事」
「所領得替前司新司事」
「中媒事」
「辻捕事」
「放牛馬、採用土民作物草木事」
「犯罪事」
「乱牛馬事」
「給府中地輩事」
道祖神社事」
「町押買事」
「府中指笠事」
「大路事」
「保々産屋事」
「府中墓所事」
「令押作私物於道々細工等事」
「出禄事」
「双六、四一半、目増、字取等博奕事」

これの一つ一つの条文の検討もいずれ行いたいが、さしあたってこの法令が出された仁治三年正月に何があったのかを略述しておこう。この一連の動きは鎌倉時代の政治過程にいささか関心があれば周知の出来事である。
仁治三年正月九日、四条天皇が死去した。転倒したことが原因である。12歳の幼帝に後継者となるべき皇子のいるはずもなかった。
四条天皇の即位の経緯も朝幕関係に大きく規定されていた。四条天皇の祖は後鳥羽天皇の兄の守貞親王。幼少期に平知盛に育てられ、平氏都落ちの時に平氏に連れ去られたために弟の後鳥羽天皇が即位し、守貞は自らの運命を嘆いて建暦二(1213)年に出家して行助入道親王と名乗る。この段階で行助入道親王の子孫には皇位継承の可能性がなくなった。
運命が急転するのは承久の乱である。承久の乱で幕府は倒幕にかかわった後鳥羽・順徳と自ら望んだ土御門の三上皇を配流、さらに懐成天皇を廃位した。懐成を淡路廃帝と比較して後廃帝または母親の実家から九条廃帝と呼ばれ、また即位式も挙げていなかったために半帝とも呼ばれた。明治に入ってから仲恭天皇と諡された。
代わって皇位を継承したのは行助入道親王の皇子の茂仁王である。茂仁天皇はまだ十歳だったので、結局父の行助入道親王院政を行ない、承久の乱の後処理が行われる。しかし行助は二年で死去してしまう。諡して後高倉法皇という。
茂仁天皇は貞永元(1232)年二歳の秀仁王に譲位して院政を開始するが二年で死去し、秀仁天皇九条教実九条道家近衛兼経を摂政として政務を行う。しかし十二歳で事故死し、後高倉流の皇統は断絶した。
この時点で残存している皇統は後鳥羽法皇の皇統だけである。ちなみに延応元(1239)年配流先の隠岐で死去した後鳥羽には当時は顕徳院と諡されていた。後鳥羽を崇拝し、後鳥羽の愛した佐渡院(順徳上皇)の中宮の父であった九条道家の運動による。
道家皇位継承者として佐渡院の皇子であった忠成王を推挙した。鎌倉幕府四代将軍藤原頼経の父でもあり、摂政関白を歴任した九条道家の権勢をもってすれば忠成王の即位は既定路線であるかのように思われていた。道家は幕府にも意向を尋ねたが、まさか幕府が反対するとは思っていなかったであろう。
しかし皇位継承の可能性のある人物は忠成王だけではなかった。土御門上皇の子の邦仁王である。しかし邦仁王には土御門上皇の生母在子の養父で、邦仁王の母の祖父の土御門通親の子の定通しか後ろ盾がおらず、土御門一門も定通が内大臣になってはいたものの、あくまでも妻が北条義時の娘であったことが幸いしただけであった。鎌倉幕府将軍の父である九条道家との実力差は歴然である。
北条泰時の判断は速かった。四条天皇の死去を知るとただちに安達義景を上洛させ、邦仁即位を命じる。義景が「忠成王が即位していたらどうしましょう」と問うたのに対し「武力に訴えてでも玉座から下ろし奉らせよ」と命じたといわれる。
正月二十日、土御門皇子は元服して邦仁と名乗り、践祚して皇位に就いた。諡を後嵯峨天皇という。
それまで幕府を支えてきた九条家の落胆は大きく、また幕府の露骨な皇位への干渉は公家の憤激をかった。さらに天皇空位が十二日にも及んだことも問題視された。しかしその不満は表立つことはなかった。
しかし泰時の行為への露骨な干渉は、中世の国家史上大きな意味を有している。
神皇正統記』において北畠親房は次のように述べる。

順徳院ゾイマダ佐渡ニオハシマシケルガ、御子達モアマタ都ニトドマリ給シ、入道摂政道家ノオトド、彼御方ノ外家ニオハセシカバ、此御流ヲ天位ニツケ奉リ、モトノママニ世ヲシラントオモハレケルニヤ、ソノオモブキヲ仰ツカハシケレド、鎌倉ノ義時ガ子、泰時ハカラヒ申テコノ君ヲスヘ奉リヌ。誠ニ天命也、正理也。土御門院御兄ニテ御心バヘモオダシク、孝行モフカクキコエサセ給しかば、天照大神ノ冥慮ニ代テハカラヒ申ケルモコトワリ也。

ここでは泰時による後嵯峨擁立が「誠ニ天命也、正理也」と評価され、さらに「天照大神ノ冥慮ニ代テハカラヒ申ケルモコトワリ也」とまで評価されている。そして後嵯峨天皇自体も「抑此天皇正路ニカヘリテ、日嗣ヲウケ給シ」と評価されている。後世の公家社会においては泰時の擁立した後嵯峨天皇が一つの理想と考えられていたのである。そして後嵯峨擁立を契機に朝廷と幕府の新たな関係を築き上げたと考えたのは、北畠親房に代表される後世の公家だけではないだろう。泰時自身皇位継承に介入して朝廷の大勢を押しきって後嵯峨を擁立することが、朝廷と幕府の関係、言い換えれば中世国家史上画期的な出来事になる、という自意識が働いていたのではないだろうか。後嵯峨が践祚する直前に発された「新御成敗状」は鎌倉幕府の新たな旅立ちの宣言だったのではないだろうか、と今のところ妄想している。
追記
これは大友氏の出した法令であるようだ。いわゆる家法であり、これを上のように解釈するのはかなり無理。気をつけよう(汗)。