鎌倉幕府「撫民法」を読む−追加法217

鎌倉幕府の「撫民法」と呼ばれる一群の法令を読んでいる一連のエントリ。この一連のエントリにおける「撫民法」とは百姓が原告となって地頭を訴えることができるように訴訟手続きを整えることを指す。
これは「追加」と題され、「寛元二年十月九日記之。同四年閏四月廿日不可有偏頗之由、各被申起請文畢」とある。寛元二(1244)年に作られ、寛元四(1246)年に起請文を出した、とある。寛元二年に出され、寛元四年にその施行を徹底した、というところであろうか。法制史には疎いのでよくわからないが。
寛元二年の執権は北条経時。この年には将軍藤原頼経を辞任させ、子の頼嗣を将軍に据えていた。頼経が反執権勢力の核となり始めていた。特に泰時が死去し、孫の経時が若くして執権職を継承したことで北条氏内部でも不満が高まり始めていた。頼経のもとに集まっていったのは三浦氏の中でも三浦光村、北条氏では名越光時と時幸が代表的な人々で、他に評定衆の後藤基綱、三善康持、千葉秀胤らであった。経時は機先を制して頼経から頼嗣に将軍を代えるとともに頼経の京都送還を企図した。しかし頼経は口実を設けて京都に帰ろうとせず、頼嗣の後見人として経時に対抗していた時期である。
寛元四年には経時は重病にかかり、執権職を弟の時頼に譲り、死去する。この法令に起請文を付したのは時頼が継承して間もなくのことであり、時頼政権の船出に当たって時頼政権の方針を宣言したものと考えられよう。
寛元四年に起請文を記したのは大友氏だと思われる。寛元二年に幕府の評定で定められ、寛元四年にはその遵守を大友氏の領国で誓ったのであろう。
本文

一 訴訟人事
右、不論高下、不嫌貧福、致愁訴之日、忩可令(虫欠)也。若属一方、蔑如無力、及遅引者、沙汰人殊被改其職、可行其科也矣。

これが第一条に掲げられている。多くのまとまった法令では第一条は神仏関係になることが多いのであるが、この法令では撫民法が一条に挙げられていることは、幕府、というよりも経時・時頼政権の重要政策がそこにあった、ということである。
読み下し。

一 訴訟人の事
右、高下を論ぜず、貧福を嫌わず、愁訴を致すの日、忩(虫欠)致すべきなり。もし一方に属し、無力を蔑如し、遅引に及ばば、沙汰人殊にその職を改められ、その科を行うべきなり。

身分の高下や貧富の差によって区別することを禁じ、「無力」つまり弱者を蔑むような政治家は追放せよ、というこの法令は時頼政権の方針を高らかに宣したものであろう。時頼政権における弱者救済の政治の始まりとして意義付けることが出来よう。
追記
これはどうも大友氏が出した法令であるらしい。いやはや無知は恐ろしい。上に書いたことはおそらく無意味。
追記2
吾妻鏡』寛元二年十月十三日にこの法令の原型となる法令が出されている。
本文。

十三日庚辰。為備後守奉行博奕等事被経沙汰。双六者、於侍者可被許之。至下臈者永可令停止之。四一半銭、目勝以下種々品態、不論上下、一向可被禁制之由、被仰出云々

読み下し。

備後守の奉行として、博奕等の事沙汰を経らる。双六は侍に於いてはこれを許さるべし。下臈に至りては永くこれを停止せしむべし。四一半銭・目勝以下種々の品態、上下を論ぜず、一向禁制せらるべきの由仰せ出さると云々。

結局寛元四年にどうのこうの、という問題ではあまりない、ということ。前将軍藤原頼経と4代執権北条経時のせめぎ合いが行われていた頃。
上の『吾妻鏡』の記事は追加法233の問題だった。