鎌倉幕府法としての大友氏の法

前回と前々回取り上げた「幕府法」の主体が大友氏であり、それゆえ前回と前々回のエントリにおいて「無意味になった記述」はどこかを示しておこう。大友氏の法令だとは言っても大友氏の家法ではない。豊後の守護であったが、この時の当主大友頼泰が豊後に下向するのは文永年間で、元の攻撃が迫る頃であった。寛元年間にはまだ鎌倉や京で頼経の側近として活躍していたのである。大友氏が発布した法令は、幕府法を大友氏なりに整理したものであろう。それゆえ幕府の国家史上の位置づけに関する考察が無意味になったものではない。大友氏が下敷きにした法令が北条経時北条時頼によって出されたという前提でなされた、一連の撫民法が時頼政権の船出であった、とする分析が無意味なのである。前回と前々回で取り上げた法の原型となった法は北条泰時の晩年に出された可能性が高い。やはり経時・時頼よりは晩年の泰時と、泰時が登用した泰時の弟の北条政村こそがやはり鍵となる人物には違いない。その方向性で少し考えてみよう。