未公開のテクストに基づく批評は引用者の恣意性をあらわにするだけ
『アイヌ神謡集』の編者として知られる知里幸恵は次のような詩を書き表している。
神は私に
病を与え給ふた。
何故々々
神は私に
斯様なものを
与え給ふのか。
私の知らぬまに。
私は黙って黙って
それを受け入れてゐるより
しかたがないのです。
月の夜
秋風が青白い葉裏を見せる時
葉がくれに
チラチラする軒灯の
美しさに見とれていたやもりが
ついに、身のみにくさも忘れて
電灯に這いあがり
熱に焼き殺されて
みにくい骸を
残してゐるのを見ましたが
今の私たちアイヌの女は
ちょうどこの東京のやもりと
同じことをしているのです。
さもない者は世の片隅の
薄暗い場所に住まったまま
じっとしているのです。
これについて丸山隆司氏は「知里幸恵の詩/死」(西成彦・崎山政毅編『異境の死−知里幸恵、そのまわり』人文書院、2007年所収)の中で次のように述べている。
ここには、幸恵が自ら陥ってしまったアポリアを詩として表現しようと試みていることがはっきりとみてとれる。とくに、二番目のパラグラフには、「今の私たちアイヌの女は」と書きつけられ、日記や書簡にはみられなかった対象化がある。「アイヌ」であり、かつ「女」であるという自己認識にいきついた幸恵の詩があるのだ。
この考察について丸山氏は注の中で次のように説明している。
このノートは未公開であり、中井三好『知里幸恵 十九歳の遺言』(彩流社、一九九一年)から引用した。引用中の傍点は、中井が補った部分である*1。ちなみに、この詩が書かれている「日誌帳」について中井はつぎのように書いている。
幸恵はシサムの誰にも理解してもらえないこのアイヌ民族の苦しみを、その晩詩に書いた〔・・・〕歩いてきた自分の影の卑屈でいじけて曲がっている姿を思えば思うほど、くやしい思いが胸を張り裂いて詩となってでてきた。やさしい少女の詩とは想像もつかないこの殴り書きの烈しい詩句の上を、血の如き幸恵の涙がぽたぽたと流れ落ち、インクで書かれた字形が涙に浮き上がり、歪んではぼんやりと『日誌帳』の罫線からはみ出して広がっていった。
また藤本*2『知里幸恵 十七歳のウエペケレ』*3にも資料としてあげられているが、藤本は、中井の「補綴」について、つぎのように批判している。
また、幸恵の、『日誌帳』も、私が「連作」といっている一連に何ヶ所か「補綴」を加えているが、「補綴」が「補綴者」の言葉であって、変質された幸恵像が生まれることになる。それが引用されると(例、富樫利一『銀のしずく「思いのままに」知里幸恵の遺稿より』彩流社など)、間違った幸恵像が増幅される。
(中略)いすれにしても、資料が公開されないままに行われている批評は引用者の恣意性を露わにするだけである。
講義というのは原則公開されないものである。公開講義には公開講義なりの開催の仕方があり、事務方の仕事もそれに合わせて変わってくる。講義の担当者サイドからすればモグリは歓迎されるべきなのだが、大学の運営サイドからすればそれは好ましくない。従って講義する側もそれなりに遠慮した物言いになる。
ブログ上で「講義に来て質問すればいい」とか「誰も来ずに拍子抜けした」と挑発的な言葉を書き連ねること自体が大学教員としての自覚に足りない、と思われて仕方がない。結局挑発されてやってきた人々を排除するのは止むを得ない仕儀であるとは思うが、そもそもそのような騒ぎになることを連想しなかった危機管理が問われるだろう。
私はやってきた人を排除するのはある意味当然であると考えている。大学の講義はそういう意味で開かれたものではない。あくまでも受講者が優先されるべきである。
私が仕事をしている塾では見学者を断っている。今の主流は塾の授業に見学者を入れ、宣伝することであるが、私の勤務先の塾は見学者が入ることで受講生のペースが乱れることを嫌って見学は受け付けていない。多分かなりの客を逃がしているとは思うが、それはそれ。
自分に対するネット上の批判を論破するために自分の講義を持ち出したことは責められるべきであるとは思う。ブログ上の論争はブログ上で行われるべきだろうし。逆に講義に関わることを安易にブログ上で言及することも安易な態度であると思う。
これは自分への戒めである。
知里幸恵の詩についても論じるべき問題は多々あると思うが、それはまたいつかできればいいな、と。