知里幸恵の「日誌帳」

藤本英夫氏の著作『知里幸恵 十七歳のウエペケレ』(草風館、2002年)において「資料」として知里幸恵の『日誌帳』を公開している。知里幸恵のメモのようなものなのでかなり読みづらいのだが、知里幸恵がその若い生涯を終える直前に書き記した文章がある。藤本氏もこの文章から新たな知里幸恵像を描き出そうとしている。その文章について少し考えてみたい。原文はメモ帳に書かれているらしく、公開を前提とした文章ではないため、読むづらいところも多い。理解できる範囲で直し、その旨を脚注に記すとともに、改行もかなり減らした。原文は前掲藤本氏の著作の「ぷろろーぐ」(8ページ〜11ページ)を参照いただきたい。

A様 初秋の風が青葉を渡ってそよそよと梢々を揺るがせる頃になりました。
同じ学窓に学び、*1雪まだ消えぬ 消えやらぬ三月に涙してお別れ致しましてから早や三年、*2秋はこれで三度訪れます。
其の後級友のどなたにも殆どおたよりを承ったこともございませぬが、*3定めし御壮健で幸多き日々をお送りの事と存上げます。
A様、かく申し上げる私*4の名はたやすく貴女の御記憶にあわはれ出されませう。何故なら私はほんとうに学校でも特別な*5生徒でしたから。
在学三ケ年間、私はどなたともしんみりとした友情を持って語りあったことはございませんでした。
だから卒業後の今は学友のうちから真の知己という人を私は持ちません。
雨雪のちらちら降る日、雨がそぽそぽと降る朝、唾や気□
それは当たり前の*6事です。
女方には何うしても私といふものゝ心持ちわかっていたゞけなかったのです。
そして私も貴女方に親しみを持って私の心持ちを知っていたゞかうとお話申し上げる*7ことが出来なかったのです。
ですから貴女方と私の間には目に見えない厚い壁が築かれてゐたことを貴女方はご存じなかったでありませう。
A様 何卒しばらくおきき下さいませ。私の生いひたち、*8さう申しましても、別に世の人と変ったことありませんでした
□の母 □の母の港の 温い□の母のふところに育まれ、五つ六つの頃は年老ひた祖母とたった二人で山間の畑にすみ、七つの時旭川の伯母の所へ参りまして、御存じ近文部落アイヌ小学校に学びそこで尋常小学科をへて
くやしい・・・さう思う私の生活は実に学校

藤本氏は幸恵の受けた教育について触れた後に「彼女の心の奥底には晴れないものがあったのでは」として最後の数行に触れる。
「尋常小学科をへて くやしい・・・さう思う私の生活は実に学校」
このあとが書かれていない。なぜここで書き終わってしまったのか。
幸恵が学校生活を始めたのは上川第三尋常高等小学校尋常科に入学したが、九月に「土人学校」として「上川第五尋常小学校」が設立され、アイヌの児童はこちらに移された。いわゆる「土人学校」については、修業年限を通常の尋常小学校の4年から3年に短縮し、科目数も削減された、いわば簡便化された教育を和人とは別にほどこす、というものであった。そこではアイヌの文化を劣ったものとして扱い、アイヌから「日本人」になることが目標とされた。
上川第五尋常小学校を卒業後、幸恵は北海道庁旭川高等女学校に不合格、旭川区立上川尋常高等小学校(旧上川第三高等小学校高等科)に編入する。「土人学校」から高等小学校に編入されるのは珍しかった。担任の「偏見を持って迎えてはいけない」という事前指導もむなしく、偏見は強く、伯母の金成マツは「子供達が娘(幸恵)の身辺につきまとふて鼻をクンクンさせながら、『この愛奴は臭くない』などと嘲笑しますので、娘は学校へ出ることをいとひました」という(『北海タイムス』大正9年7月27〜29日)。
旭川高等女学校不合格に関しても噂があった。幸恵は最高点だったが、軍都旭川の名門校にクリスチャンでアイヌの子どもに最高点で入られては示しが付かない、ということで不合格になった、という。藤本氏は「噂は信じたくない。しかし、もし事実だったとしたら、取り返しのつかない無惨なことだ」と記す。
結局上川尋常高等小学校に編入後一年して旭川区立女子職業学校に四位で合格した。
その頃の幸恵の心情を藤本氏は両親の知里高吉、ナミエあての手紙から想像している。十四人の教師について一人一人印象を書いている。「彼女の高感度に比例して寸評字数が多くなるようだ」と藤本氏は書いている。その一方で幸恵の手紙に登場する同級生は級長の伊達という生徒と、幸恵とともに副級長を務めていた国本という生徒だけである。「手紙に登場する同級生の名前はこの二人だけ。教師は十四人に『小使いさんが二人、給仕が小娘一人」とまであるのに−。私はまたここで『A様』を読む。」と藤本氏は結んでいる。
藤本氏はさらに当時の同級生の空気を次のような逸話で紹介する。

同級生たちは、幸恵の死後、『アイヌ神謡集』が出たとき、「あのひがみっぽいアイヌの娘がね」、「そう言えばあの人、三年生の終わり頃、ときどきノートに英語、書いてたわね」と複雑なジェラシーを交えてびっくりした。「英語」というのは、幸恵のローマ字の練習のことだ。
教室のなかでは、教科にはない「英語」勉強に対しても冷たい目があったのだ。

そして幸恵の後輩の松井マテアルの記憶する幸恵の言葉を藤本氏は紹介する。

「学校にいくの、面白い−?」
マテアルは、「うん、面白い−」と答えて幸恵の顔をみた。幸恵が「そおー」という顔をしたので、
「私も、幸恵姉さんみたいに上の学校にいきたい・・・・・」と、言った。
すると、幸恵は、いっしゅん間をおいて、
「そんなに勉強したい−?勉強、教育なんて、何さ−」
と言った。いつにない鋭い声色だった。マテアルはつぎほを失った。それで、「いまでも、私は忘れられない、幸恵さんが、そのあとに言ったこと」と、幸恵の言葉を暗誦していた。
「教育なんて何さ、教育ってそんなに大事なもの?差別されてまで学校に行きたいかい?肩身のせまい思いまでして上にいきたいの?それよりも勉強がいやになったら、自由にはばたいたらいい。強くなりなさいよ−」
私はここでまた「A様」を読みたくなる。

*1:原文にこの読点なし。

*2:原文にこの読点なし。

*3:原文にこの読点なし。

*4:原文にはここに「を貴女はたやすく貴女」がある。

*5:原文には「生活」がある。

*6:原文では「当たり前の」の部分が「当前のこ□あたまへりの」となっている。

*7:この部分は原文では「お話申しげる

*8:原文にこの読点なし。