「関東新制条々」21−追加法360

「関東新制条々」の中の過差禁制条項。「過差」とはぜいたくなこと。過差による出費が百姓の負担に転嫁させられていることへの対応として過差禁制条項は位置づけられる。今回扱う条文はまさにその一つ。
本文。

一 造作事
右、倹約可止花美也。且非一郭新造之外者、不可充催其用途於百姓等。但可停止過分支配之。放生会桟敷止桧可用杉。

まだ360は続くが、一旦ここで切る。というのはこの傍注に「文応奉行長泰」とあり、切った次のところに「延応長泰」とある。傍注に関してはこれも佐々木文昭氏の著作『中世公武新制の研究』(吉川弘文館、2008年)に拠りつつみていく。佐々木氏は「傍書の年号は、新制の発布または少なくともその準備が行なわれた年次を示しているのではないだろうか」とし、傍注が二ヶ所ある360に関しては「同一人物がその条項を重ねて担当」としている。佐々木氏の分析に従うならば、この条項は大曽根長泰が後半を延応年間に担当し、その後前半の百姓への用途転嫁禁止文言を盛り込んだものと考えられる。
360の続き。

私家帳台、蒔絵并障子引手組緒可停止之。同障子縁可止紫也。雖寝殿、於引手同座者、可用革也。懸金寝殿之外可用鉄。
三枚障子紙散薄、一切可停止之。
唐垣一切可停止之。
明障子鎹、椙障子栗形等、止銅可用鉄也。畳雖寝殿、不可用大文高麗、可用麁品小文。且下縁可用麁品紺藍摺布等。同裏可用麁品布也。但帳台間皆高麗一帖者、可被聴之。簾縁入御之時御所之外可止之。

読み下し。

一 造作事
A 右、倹約は花美を止むべきなり。且つ一郭新造のほかにあらずんば、その用途を百姓らにあて催すべからず。ただし過分の支配はこれを停止すべし。
B 放生会の桟敷は桧を止め、杉を用うべし。
C 私家帳台は蒔絵ならびに障子の引き手組み緒はこれを停止すべし。同じく障子の縁は紫を止むべきなり。寝殿といえども、引き手同座においては、革を用うべきなり。懸金は寝殿のほかは鉄を用うべし。
D 三枚障子の紙の散薄は一切これを停止すべし。
E 唐垣は一切これを停止すべし。
F 明障子のかすがい、椙障子の栗形などは、銅を止め鉄を用うべきなり。
G 畳は寝殿といえども、大文高麗を用うべからず、麁品小文を用うべし。且つ下縁は麁品紺藍摺りの布などを用うべし。同じく裏は麁品布を用うべきなり。ただし帳台の間はみな高麗一帖はこれをゆるさるべし。簾の縁は入御の時は御所の外はこれを止むべきなり。

Aが百姓への転嫁を禁止したこの法令の眼目であると思われる。
B以下は詳細規定で、桟敷や調度品などへの細々とした規定が定められている。銅よりも鉄を使え、だの、帳台や障子や畳に関わる様々な調度品に規制が加えられている。
制定過程はC以下がまず作られ、その後AとBが付け加えられたということになる。制定者の大曽根長泰は安達氏初代安達盛長の孫にあたる。盛長の嫡子景盛の子孫が安達家嫡流を嗣いで、景盛−義景−泰盛と受け継がれたのに対し、盛長の庶子の時長の子が長泰である。長泰は建暦元(1211)年に生まれ、嘉禎元(1235)年に『吾妻鏡』のその名前が「大曽根兵衛尉長泰」として出てくる。宝治元(1243)年の宝治合戦で活躍し、その報告の東使となる。建長元(1249)年に引付衆、康元元(1256)年に上総介に任官、弘長二(1262)年8月に死去、52歳であった。大曽根家は長泰の死後も代々上総介になる。