維新政党新風の声明に関する一考察

維新政党新風の「声明:民族差別を許さない」という声明について考えてみたい。この声明に関してはその真意を疑う声が中心である。私も基本的にはそう思う。ただ私は「自称リベラル、他称はてさ」らしいので、私が新風のこの声明を「所詮差別主義者の言い逃れ」と批判しても「どうせはてさのWallersteinが言っていること、www」で終わりである。問題はこれをいかに実効性のあるものにしていくか、ということである。何も新風にこの声明の実行を迫る必要などない。新風が「卑小なる民族差別主義者とは一線を画す」と言った所で、実際に「卑小なる民族差別主義者」と訣別できるか、と言えば、はなはだ心もとない。私の狙いは別にある。
この声明が出されたのは4月13日。新風連の名古屋での「ゴミ」発言と在特会蕨市での一家3人に対する威圧的なデモ、この二つの出来事、就中名古屋での「ゴミ」発言を「ゴミ」発言した方が嬉々としてネットにアップしたことを受けて出されたことはほぼ明らかであろう。「一部において、わが党が民族差別を助長する言説を弄してゐるがごとき悪宣伝」というのはその「ゴミ」発言に対する批判を意識していることはいうまでもない。そしてその批判が新風にある程度のダメージとなったからこそ「卑小なる民族差別主義者とは一線を画す」という宣言になったのだろうと考えられよう。言い換えれば名古屋での「ゴミ」発言に対する批判が新風にとっても座視できない力となっていることの証左である。
「ゴミ」発言について言えば、ネットでは「ゴミ」発言を擁護する意見が相次いでいる。あるいは「ゴミ」発言にキレた相手方を批判することで「ゴミ」発言を相殺しようという動きはまだ多くある。しかしそういう差別発言を正当化しようという動きがネット内では大きいにも関わらず「卑小なる民族差別主義者とは一線を画す」という声明を出さざるを得なかったのは、それだけネット内でも差別を正当化しようという動きが追いつめられていることを示している。
実際に新風が在特会新風連を切るか切らないかは私には関心がない。というよりも切るに切れないだろうと言う気はする。切るだけの根性が彼らにあるのであればとっくに切れているはずである。本当に切れれば、それはそれで一つの評価ポイントにはなるだろうが、そもそも左翼である私は新風の行く末に何の関心もない。もはやネット内でも異端言説と化しつつある彼らとともに社会から切り離されて、カルト化し、崩壊する、というかつての新左翼と同じ運命をたどるだろう、という見通しを持ってはいる。
新風内部の注目すべき現状認識がある。

彼らはネットで自信過剰になっている。実名も明かした自己紹介も出来ず、親に内緒で世の中変わると思ったら大きな錯覚である。自己紹介も出来ずに人間関係が築けるかだろうか。日本にとって一大事なことを親に内緒でして世の中が変わると思うのか。甚だ疑問である。
まして況や自己の勉学を怠り自分の意見と合わない人間を『あいつは在日だ』『おまえは学会だ』とネットで書き記すのは見識が浅いどころの話ではない。
デモなどにおいても、『在日をたたき出せ』『ゴミはゴミ箱へ、在日もゴミ箱に』と絶叫するばかりでは、偏狭どころか関東大震災の後のデマゴーグ再来である。

これはスバリストさん(「書生録 - FC2 BLOG パスワード認証」)経由で知った維新政党新風の渡邊昇組織委員のメルマガである。
そもそも「ネットで自信過剰になっている」人々にはそもそも日本の保守思想にも関心が薄い。
渡邊氏のメルマガより。

我が国の民族主義運動の道統についても無関心な人々も多い。明治維新以降、玄洋社頭山満翁、黒龍会内田良平翁を仰ぐ「大亜細亜主義」、あるいは大正の渥美勝大人の「桃太郎精神」。また、血盟団事件五・一五事件、神兵隊事件、二・二六事件と連なる昭和維新運動があり、戦前・戦中・戦後を通して維新運動に従事した中村武彦先生や大東塾の影山正治塾長がおられ、愛国党の赤尾敏先生もいて山口二矢烈士がいたのである。そして三島由紀夫・森田必勝両烈士がおり、学生運動の頃より森田必勝烈士と学窓をともにして政治活動をしていた世代が有志懇話会に集い、これが維新政党・新風の母体となった。

右翼の系譜に関する把握は私とはいささか異なり、私の感想を言えば「味噌もクソも一緒」に全部をまとめているような気がする(別にそれが悪い、という意味ではなく、あくまでも私の関心とのずれを言っているだけである)。それはともかく「民族主義運動の道統についても無関心な人々も多い」ということについては、かつてdj19さんのコメント欄で自信満々にネット内で仕入れた歴史知識を以て「ここの皆さん、一度歴史をよーく勉強し学んで下さい」と言ってきた論客は内田良平頭山満も知らなかった、という一件を思い出す(「2008-07-02 - Transnational History」)。
ここからうかがえるのは、新風がネット内で支持を集める一つの回路が、他者・他国を貶めることによってしか自らのレゾンデートルを確認できない自愛主義的雰囲気が、伝統的保守主義という正統的言説をまとい、主流化する、ということである。維新政党新風が支持を集めたのは、まさに本来は伝統的保守思想とは無縁に、むしろ伝統・既存の社会的価値を徹底的に批判し、「私」の世界観で世界がすべて解釈可能であると考えるという、典型的な「青年期」思想に正当化の根拠を与えてきたのがかつての左翼思想であり、今の排外主義思想であり、その排外主義思想を柱に「青年期」思想にとらわれた若者を糾合した在特会新風連に居場所を与えてきたのが伝統的保守思想を標榜する新風である。新風はかれらを取り込むことによって党勢を拡大することに成功した。しかしそのモデルが破綻し始めていることを新風自身が認識し始めている。一連の声明をみて私には以上のように思えたのである。その結果がどのようになっていくのか、つまり新風が在特会新風連を切るのか、切れないのか、は私には分からない、としか言いようがない。
私の見通しは、今回の「ゴミ」発言に関して、伝統的な保守思想とは無関係に、自分の自信を回復するために他者・他国を貶めることによってしかなしえず、それゆえにナショナリズムを自らのレゾンデートルに関わる問題としてとらえる人々が、今回の「ゴミ」発言や、蕨市のデモを支持する、という図式がより明らかになり、伝統的保守思想を標榜する人々との乖離を強めるのではないか、とみている。差別・排外主義者がまとう伝統的保守主義の衣をはぎとり、彼らの卑小なる実像を白日のもとに晒すことが、私のような左翼のみならず、伝統的保守主義者にとっても必要なことである、と考えている。そのためには、排外主義思想と伝統的保守主義のつながりを解体することが必要である。そのためにさしあたって有効なのは、新風の真意とは無関係に、新風の声明「卑小なる差別主義者とは一線を画す」という言葉を反復し続けることだ、と考えている。新風の真意を憶測する必要などない。彼らの真意がどうであれ、伝統的保守主義民族主義を標榜する新風と、自らの自信を回復するために他者・他国をけなし続ける排外主義者を切り離すための手段として「声明」を最大限利用することが有効である、と考えている。