我が九条(その5)九条忠家

九条教実の早世により、祖父の跡を継いで九条家を継承したが、祖父道家と叔父藤原頼経、従弟の藤原頼嗣が北条得宗家ににらまれ、勅勘を蒙った影響で右大臣で出世が止まり、近衛・鷹司と父の道家と対立していた二条良実が廟堂で勢力を保つ。
これが何を意味するか、と言えば、当時の摂関は摂関の子という不文律があり、つまりは九条忠家が摂関に就任する前に右大臣を辞任し、散位になった、ということは、このまま忠家が死んだ場合、九条家摂関家から脱落する、ということを意味する。結局長い雌伏の後に忠家は関白に就任し、五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条)が成立するのである。
九条家は兼実、良経、道家、教実まではウィキペディアにも詳細な経歴が付けられているが、忠家以降は非常に簡便な経歴しかなく、なぜか、と思っていたら、『尊卑分脈』をみて納得した。『尊卑分脈』には教実までは詳細な経歴表があったが、忠家以降は非常に簡略化されていた。おそらくウィキペディアの編集は『尊卑分脈』を基に編集されているのだろうと思われる。そこで「我が九条」では『公卿補任』を参照しながら作成する。
No.5 九条忠家(父:九条教実、母:藤原定季女)
01:寛喜1(1229).07.  生(1)
02:嘉禎4(1238).04.11.元服正五位下、禁色を許される(10)
03:嘉禎4(1238).04.18.任左近衛少将
04:嘉禎4(1238).07.20.左近衛中将
05:嘉禎4(1238).08.28.従四位下
06:暦仁1(1238).12.20.従四位上
07:暦仁2(1239).01.05.従三位(11)
08:延応1(1239).04.13.正三位
09:延応1(1239).10.28.任権中納言
10:仁治1(1240).10.任権大納言(12)
11:仁治2(1241).01.05.従二位(13)
12:仁治2(1241).06.07.正二位
13:仁治3(1242).04.09.兼左近衛大将(14)
14:仁治3(1242).12.23.左馬寮御監
15:寛元2(1244).06.13.任内大臣(16)
16:寛元4(1246).05.20.辞左近衛大将(18)
17:寛元4(1246).12.24.任右大臣
18:建長4(1252).07.20.辞右大臣(24)
19:文永10(1273).05.05.関白宣下、藤原氏長者宣下(45)
20:文永10(1273).12.25.従一位
21:文永11(1274).01.26.摂政宣下(46)
22:文永11(1274).06.20.止摂政
23:建治1(1275).06.09. 没(47)
01~23『公卿補任