我が九条

五月三日

五月三日は九条にこだわる拙ブログにとって特別な日である。 承元元年四月五日は九条家の祖九条兼実の命日なのだが、グレゴリウス暦に直せば、1207年5月3日になる。 『天子摂関御影』の九条兼実。

『政基公旅引付』続き

次は永正元年(1504年、文亀四年は二月二十九日に永正に改元)三月二十六日条。 二十六日戊子 晴、去夜又蕨之粉盗人有之。見付而追入家内殺害了。寡婦両人也。其外十七・八ナル男子、其外年少之子共、夜前モ六・七人殺之云々。不便不便。盗人之上者不及是非…

蕨粉と『政基公旅引付』

文亀四年(1504)二月十六日条の『政基公旅引付』(九条政基の日記)が少し話題になっているので、九条にこだわる弊ブログとしても、乗らないわけにはいかない。 原典を示しておこう。どうやら原典はネット上ではないようだ。時代の進歩について行こうw 十六日…

我が九条特別編 九条稙通

室町末期から安土桃山時代の九条流当主。魔術を修めたり、松永貞徳に「言葉遣いが田舎臭い」と嫌みをいったり、織田信長が上洛してきた時に「上洛めでたし」と立ったままいったり、豊臣秀吉の藤原姓獲得に反対したり、豊臣秀次の関白就任に「神罰が当たるぞ…

我が九条(その8) 九条房実

鎌倉時代末期の九条流当主。関白在任が短いが、まあ順調な人生を送ったのではないか。 九条房実(父:九条師教、母:藤原有時女) 正応3(1295). 生(1) 正安01(1299).12.19.従五位上、禁色昇殿元服(10) 正安01(1299).12.30.侍従 正安02(1300).01.05.従四…

我が九条(その7) 九条師教

九条家がようやく摂関家の一員として残ったため、師教は比較的順調に昇進している。皇太子富仁親王の東宮傅を務めながら後二条天皇の関白を務めるなど、持明院統・大覚寺統双方とうまくやっているが、おそらく後二条天皇の関白を務めるのは、来るべき富仁親…

我が九条(その6)九条忠教

かなり動乱の時代を生きたと思うが、影が薄い。モンゴル戦争のさなかに公卿の仲間入りを果たし、二度の戦争を経ていまだモンゴル再襲来の恐怖におびえる中、近衛家基のあとをついで関白に就任する。しかし再び近衛家基に関白を譲らされる。家基の関白就任を…

我が九条(その5)九条忠家

父九条教実の早世により、祖父の跡を継いで九条家を継承したが、祖父道家と叔父藤原頼経、従弟の藤原頼嗣が北条得宗家ににらまれ、勅勘を蒙った影響で右大臣で出世が止まり、近衛・鷹司と父の道家と対立していた二条良実が廟堂で勢力を保つ。 これが何を意味…

我が九条(その4)九条教実

九条道家の子の中でも一番地味。というか二条良実と一条実経と藤原頼経は大河ドラマ「北条時宗」で一条実経(井上順)、二条良実(谷本一)、藤原頼経(宇梶剛士)が出ているのに対して九条教実は早世したせいで出てこない。まあ父の道家が出家して裏から政…

我が九条(その3)−九条道家

九条道家は本郷和人氏によれば「朝廷を『統治するもの』として再生する役割を、かれは果たした」と評価されている。彼は記録所を復興し、「徳政」つまり適材適所の人材登用と、制度の整備によって人々の訴えに耳を傾けることに努力を傾けた。道家の改革以前…

我が九条(その2)−九条良経

九条兼実には良通、良経、良輔、良平がいたが、良通は早世したので良経が跡を継いだ。 良経(よしつね)は源義経(よしつね)と読み方が一緒なので、義経が謀反人として討伐される時には良経を憚って義経を勝手に改名したようだ。『吾妻鏡』文治三年二月十日…

我が九条(その1)−九条兼実

九条兼実から九条家の人々の就任職や官位を年代順に記載し、年齢を載せる。各条の数字は典拠を載せるつもり。多分企画倒れになる。 第一回の記念すべき「我が九条」のスタートの日は憲法記念日、ではなく、始祖の九条兼実の命日(承元元年四月五日はグレゴリ…