我が九条(その6)九条忠教

かなり動乱の時代を生きたと思うが、影が薄い。モンゴル戦争のさなかに公卿の仲間入りを果たし、二度の戦争を経ていまだモンゴル再襲来の恐怖におびえる中、近衛家基のあとをついで関白に就任する。しかし再び近衛家基に関白を譲らされる。家基の関白就任を受けて朝廷では雑訴評定が組織され、家基も評定頭人になる。幕府の意向を酌んだ政策が伏見天皇のもと、行われたのである。おそらく忠教は伏見親政の構想外となったのであろう。
長生きで、三浦氏滅亡の時期から鎌倉幕府滅亡の前年まで生きた。
追記
書かなければならないことを思い出した。忠教は従三位に叙されてからも非参議がかなり長く、『公卿補任』においても「散位」の所をみないといけないので注意。九条家が後嵯峨院に嫌われたので、後嵯峨の影響がある間は出世できない。文永九年に後嵯峨法皇が没して父の九条忠家が念願の関白宣下を受け、九条家はかろうじて摂関家として踏みとどまった。もし忠家が摂関にならずに没していたら、九条家摂関家ではなくなっていたのである。忠教も後嵯峨法皇の死没を受けて権中納言になり、政界にデビューすることになる。父の忠家は権中納言には11歳で就任しているが、忠教は26歳、九条家のこの頃の苦労がうかがえる。
No.6 九条忠教(父:九条忠家、母:三条公房女)
宝治2(1248).生(1)
正嘉2(1258).12.27.元服従五位上、聴禁色(11)
正元1(1259).01.21.侍従(12)
正元1(1259).07.02.正五位下
正元1(1259).10.15.任右少将、従四位下
正元2(1260).08.03.従四位上(13)
文応1(1261).03.02.右中将(14)
文応2(1261).02.05.美作介を兼ねる
弘長1(1261).04.07.正四位下
弘長2(1262).01.05.従三位(非参議)(15)
弘長3(1263).01.06.正三位(16)
文永3(1266).02.01.近江権守(19)
文永6(1269).01.05.従二位(22)
文永8(1271).01.05.正二位(24)
文永10(1273).12.08.権中納言兼右衛門督(26)
文永11(1274).04.05.権大納言(27)
文永11(1274).09.10.兼左大将
文永11(1274).11.15.左馬寮御監
建治1(1275).12.22.右大臣(28)
建治3(1277).02.21.辞左大将、聴帯剣(30)
弘安1(1278).08.17.橘氏是定(31)
弘安2(1279).01.07.従一位(32)
弘安10(1287).08.27.一上(40)
正応1(1288).07.11.左大臣(41)
正応4(1291).05.27.関白宣下、藤原氏長者(44)
正応6(1293).02.25.止関白・氏長者「無上表之儀」(46)
延慶2(1309).01.30.出家、法名円阿(62)
元弘2(1332).12.06.没(85)