知里高吉について

私は電波系の人には左右関わらず関わりたくないので、どこぞの電波な人が「オレは吉田松陰を暗殺した忍者の末裔だ」と言おうが、「中国共産党チベットやウィグルを豊かにしてやったんだ」と言おうが、別にかまわないのだが、知里真志保を「白老コタンの酋長の次男で」というのは、いささか看過しえない過ちである(笑)。知里高吉は登別の出身なのは、いささかでも知里幸恵に関心があれば誰でも知っている話である。高吉の父、つまり幸恵や真志保の祖父はチリパ・ハエプトという。その母をチヨマップといい、チリバ・ハエプトはチヨマップの私生児である。金田一は親交のあった高吉について「南部藩の侍の血をひくチリパ翁の子で、知里姓を名乗る」と書いている。チリパ・ハエプトの父があるいは「南部藩の侍」か。蝦夷地勤番制の中で、室蘭や白老に南部藩は陣屋を設置し、藩士を駐屯させていた。
高吉自身は少年時代に登別温泉の滝本金蔵のもとに奉公し、読み書きそろばんを学んだ。金蔵夫妻は奉公人の中でも飲み込みの一番早かった高吉をかわいがり、その教えのもとで山林や土地の払い下げを受けることができた。高吉の家は純和風で、自身は背広・パナマ帽の似合うハイカラな紳士だった、という。
高吉の妻のナミは幌別の出身で、姉の金成マツと函館の伝道学校で学び、洗礼を受け、サロメというクリスチャンネームを持っている。食事前の祈りをかかさず、食事時にはナプキンで前掛けをする、という洋風の習慣をナミは崩さなかった。そしてその洋風の習慣に対して高吉は協力的であった。
つまり幸恵や真志保が生まれ育った家は到底「コタンの酋長」云々という家庭ではない。これが真志保の研究に大きな影響を及ぼしていることは、真志保のアイヌ学をかじったものであれば誰でも知っている話である。
幸恵が完璧なバイリンガルであった所以は、幸恵は幼少期にはアイヌ文化とは全く無縁な知里家に育ち、金成マツのもとに預けられてからは、祖母のモナシノウクにユーカラを学ぶ日々であった点に求められよう。そして真志保が極めて学問的にアイヌ語を研究しえたのも、真志保にとっては「外国語としてのアイヌ語」研究だったからである。
真志保は東京帝国大学に進学した当初は英文学科であった。第一高等学校時代、英語とドイツ語がずっと首席だった真志保に「アイヌ語をやらせるのは惜しい」という周囲の声があったからだという。真志保が英文科から言語学科に転籍する原因については、また機をみて考えたい。