知里幸恵日記を読む 4 大正11年7月12日

知里幸恵の日記を読み、近代日本におけるアイヌへの視線、近代日本に生きたアイヌの姿を考えようと言う企画。
前回に引き続き、近代日本のアイヌに対する視線を見ていく。

岡村千秋さまが、「私が東京へ出て、黙ってゐれば其の儘アイヌであることを知られずに済むものを、アイヌだと名乗って女学世界などに寄稿すれば、世間の人に見さげられるやうで、私がそれを好まぬかも知れぬ」と云ふ懸念を持って居られるといふ。さう思っていたゞくのは私には不思議だ。私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサムのやうなところがある?!たとへ、自分でシサムですと口で言ひ得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない、そんな口先でばかりシサムになったって何になる。シサムになれば何だ。アイヌだから、それで人間ではないといふ事もない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。私がもしかシサムであったら、もっと湿ひの無い人間であったかも知れない。アイヌだの、他の哀れな人々だのの存在をすら知らない人であったかも知れない。しかし私は涙を知ってゐる。神の試練の鞭を、愛の鞭を受けてゐる。それは感謝すべき事である。
アイヌなるが故に世に見下げられる。それでもよい。自分のウタリが見下げられるのに私ひとりぽつりと見あげられたって、それが何になる。多くのウタリと共に見さげられた方が嬉しいことなのだ。
それに私は見上げらるべき何物をも持たぬ。平々凡々、あるひはそれ以下の人間ではないか。アイヌなるが故に見さげられる、それはちっともいとふべきことではない。
ただ、私のつたない故に、アイヌ全体がかうだとみなされて見さげられることは、私にとって忍びない苦痛なのだ。
おゝ、愛する同胞よ、愛するアイヌよ!!!

岡村千秋は『アイヌ神謡集』の発行元の郷土研究社の社主で、『アイヌ神謡集』の編集も手がけていた。この四日前の7月8日に岡村が金田一のもとを訪れ、『アイヌ神謡集』の宣伝をかねて『女学世界』に幸恵の寄稿を求めている。その時に出た話に関する問題であろう。
岡村の「配慮」とそれに対する幸恵の反応が興味深い。岡村は当然『アイヌ神謡集』の宣伝のために幸恵に寄稿を求めたのであり、岡村にとっては幸恵がアイヌである、ということを「晒し者」にすることが必要なのである。岡村は『女学世界』に載せるために幸恵の写真も撮影している。幸恵の最後の写真で、幸恵の写真としては一番有名な写真である(「ファイル:Yukie Chiri.jpg - Wikipedia」)。しかしそれによって好奇の視線にさらされ、幸恵が不快な思いをするかもしれない、という懸念を持っている。
この岡村の「懸念」について丸山隆司氏は「知里幸恵の詩/死」(西成彦崎山政毅『異境の死−知里幸恵、そのまわり』人文書院、2007年)において

逆説的だが、幸恵にアイヌであることを主体的に引き受けざるをえない圧迫として作動している。とすれば、和装で撮られた幸恵の写真は、幸恵という個体を映し出したものとしてだけではなく、あたかも同化したアイヌの女性を映しだしたものとして見られる可能性をもつ

と述べている。
それに関連して金田一の次の記述も注目しておくべきだろう。

おかしいことに私の家には、別に郷里から雇い入れてある小婢がいるのですが、近所ではその方をアイヌの娘と思って、幸恵さんをば和人の女学生と思っているのです。私の家の赤ん坊を抱いて外に立って、近所の夫人などと好んで談話を交えていられましたが、幸恵さんは平気で、「いえ、私こそアイヌの女でございます」と、少しもためらわずまったく自然にそれを告白しておられました。近所の人々はまったく驚いて、かえって尊敬していました

これは幸恵を追想した金田一の記述である。アイヌ語学者金田一のもとにアイヌがいる、というのは近所の好奇のまなざしにさらされることになる。近所の視線は「未開の民」というものであったろう。幸恵は金田一によれば「標準語に堪能なことは、迚も地方出のお嬢さん方では及びもつかない位です。すらすらと淀みなく出る其優麗な文章に至つては、学校でも讃歎の的になつてゐたもので、啻に美しくすぐれてゐるのみでなく、その正確さ、どんな文法的過誤をも見出すことが出来ません

と記している。幸恵の弟の真志保が一高に入学した時に同級生から「知里君、君は北海道出身だろう。北海道ならアイヌを見たかい」と聞かれ、「アイヌが見たかったら、このオレがアイヌだよ」と答え、とか、北大の教授のときに、北大の官舎にやってきた御用聞きの少年が北海道に来た動機として挙げた「アイヌがみたかったから」に「ナニィッ、アイヌがみたくって!そんならここに立っているこの俺をよくみろ。それで十分だろッ」とキレたことを想起させる。
真志保の「アイヌが見たかったら、このオレがアイヌだよ」や「ナニィッ、アイヌがみたくって!そんならここに立っているこの俺をよくみろ。それで十分だろッ」と、幸恵の「いえ、私こそアイヌの女でございます」の間にはそれほどの差異があるわけではない。これをめぐる金田一の姿勢についてはまだ考えがまとまっていないので、また考えたい。