表現の自由覚書2

行政書士合格指導講座に依拠しながら『岩波判例基本六法』に収載された判例をみていくことで、「表現の自由」について考える材料を整理してみようと言う企画。例によっていつ飽きて放置するか、今のところ不明。北条時輔発給文書とか、撫民法とか、「我が九条(九条家の歴代当主の履歴を調べる)」とか、知里幸恵日記とか、いろいろやりかけて放置中のがあるなぁ(遠い目)。
まずは日本国憲法21条を。

集会、結社及び言論、出版その他の一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

「知る権利」というのがある。表現の自由は受け手の存在を前提としているので、表現の受け手の自由である「知る権利」も、表現の自由に含まれる、らしい。
ちなみに「知る権利」というのは、情報の受領を妨げられないという自由権的性格と、国家に対して情報の公開を要求する請求権的性格がある。請求権としての「知る権利」は法律によって具体化されることによってはじめて裁判上主張することができる権利であるところの抽象的権利である。
かつては表現の送り手の自由としての表現の自由が問題であり、受け手の自由は問題とする必要がない、とされていた。しかし行政権が拡大・強化されるにつれて、情報の国家による一元的な管理、あるいはマスメディアの発達により、国民が受け手の立場に立たされることになったことから、受け手の自由を保障する必要性が生じてきたため。受け手の自由を「知る権利」として捉えるようになった。
これの重要判例として挙げられているのが「法廷メモ訴訟」いわゆる「レペタ事件」。裁判の傍聴人がメモを取ることの許可を求めたが、許可しなかったため、違憲であるとして国家賠償訴訟を起こしたもの。確かに法廷で傍聴人がメモをとることを禁止されているので、私もある学会の用事で裁判を傍聴し、その傍聴記録を学術誌に載せることを求められていたが、結局(以下自粛)。メモが取れなかったから、内容を覚えられなかった、という言い訳をしたい。

各人が様々な意見・知識・情報に接し、これを摂取する自由は、本条一項の趣旨・目的からの派生原理であり、一般に筆記行為は、情報等摂取の補助としてなされる限り、本条一項の精神に照らし尊重される。傍聴人が法廷でメモを取ることも、見聞する裁判を認識・記憶するためになされるものである限り尊重に値し、法廷における公正かつ円滑な訴訟の運営を妨げる場合は格別、特段の事情のない限り傍聴人の自由に任せられる。(最大判平1・3・8)

これだけみると原告の請求は認められたように思うのだが、実際は「尊重される」「尊重に値し」とあって、「保障される」権利ではないため、これを禁止するのも憲法違反ではない、として原告の請求は棄却されている。これなどもそうであるが、判例は結構「へ?」というものが目につくのは事実である。しかし私はこの一連のエントリでは、判例を紹介するだけで、原則的には判例に対する論評はしないつもりである。
まだ知る権利関連の判例はあるが、話が大きくなるので別エントリを立てたい。