権門体制論と「国境」

黒田俊雄は権門体制論に対する批判として出された東西国家論に対する反論として書かれた1986年の論文「中世における地域と国家と国王」で、増田四郎『社会史への道』に依拠しながら、「中世の国家」を「世界帝国」「封建王国」「くに」に分類したうえで次のように述べる。

それ(封建王国)は国王を頂点とする政治的形成体であり、領域のなかの土地と人民を支配し封建法(広い意味での)によって統治し、当然国境をもつ。(『黒田俊雄著作集 第一巻 権門体制論』266ページ)

この中で【国王】に関して前々エントリで述べたが、ここで指摘したのは、権門体制論に忠実に依拠する限り、【国王】を天皇に限る必要はない、ということであった。現に【国王】を治天に擬する見解も権門体制論の一つのバリエーションとして出されている以上、「国制」の頂点に立つことを必ずしも前提としていない、ということであり、鎌倉幕府の将軍あるいは得宗を【国王】にしても権門体制論としては成立し得るのである。
ここで取り上げたいのは「当然国境をもつ」という記述である。黒田の所論が地域史や東西国家論に対して出されている以上、黒田が「国境」という言葉をいれることによって「日本」という枠組みにこだわっていることは当然ではある。しかしここでの「国境」が極めて不明瞭である。
黒田が措定する「国境」とはどこに引かれているのか、すら明示されていない。日本中世においては「外ヶ浜」「佐渡島」「対馬」「鬼界ヶ島」ということになるのだろうが、対馬一つを見てみても、国境というラインは曖昧である。
一番ややこしいのは琉球との関係だろう。足利氏にとって琉球「よのぬし」と関東公方と、その間にどれくらいの差異があったのだろう。私は明らかに差異があった、と考えているが、守護大名と同じ扱い、と考えている見解も存在はする。鎌倉時代の朝廷にとって、鎌倉幕府と高麗王朝の間にどれくらいの差異があったのだろうか。ましてや奥州藤原氏津軽安藤氏に至ってはどのような認識を持っていたのか。彼らは実際には奥州藤原氏は藤原一族に属し、津軽安藤氏は諸説あるが、私は鎌倉幕府得宗被官の一族と考えている。しかし彼らはそろって両属性を帯び、特に津軽安藤氏は自らを「エゾ」と称するようになる。
「日本」の範囲であるが、『高麗史』や『朝鮮王朝実録』を注意深く読むと「日本」と「倭」の使い分けに一つの基準があることがわかる。それは室町幕府であるか否かである。室町幕府の関係者であれば「日本」となり、そうでなければ「倭」と表記されるのである。これについては「日本と異なる倭があったわけではない」という議論もなされているが、これは「倭」を今日的な意味での日本の内部に無批判に編入することから生じる過ちである。朝鮮王朝の認識では「日本」とは室町幕府のことに他ならない。室町幕府から治罰を受けている少弐氏は「倭」と認識されるのである。また室町幕府と無関係に使者を派遣した伊集院頼久も「倭」と処理されるのである。これを「日本」と同一視したのでは、室町時代の実相を見失うことになるであろう。
琉球国王への文書に関しても同じ問題点を私は感じている。どう考えても御内書と琉球国王宛の書状は異なる。しかしこれが御内書と同様に読めるのは、論者の心のどこかに「琉球は日本」という意識が潜んではいなかったか。琉球国王宛の書状が仮名書きで書かれて理由については確かに『実隆公記』永正6(1509)年4月29日条には「将軍の書状が仮名書きなのは、最初の通事が女房だったからだ。だからその先例を引き継いでいる」(又将軍御書為仮名、其故者最初通事女房也。仍任其例如此云々)とある。しかしこの参議阿野季綱の説明だけでは因果関係が分からない。そこに「通事」を介在させている事自体、すでに琉球室町幕府との関係がすでに日本国内に関わる事態ではないことを示しているが、その「通事」が女房だったから仮名書きというのも納得し難い。琉球からの文書は漢文で書かれているわけであって、琉球の言語で書かれている訳ではない。ことさらに女房を「通事」に充てる必然性は低い。むしろ事態は逆で、仮名書きが公用文書に使われていた琉球宛の書状を仮名書きで出すために「通事」に女房を宛てた、と考えられないだろうか。室町幕府琉球との関係は「国内」の関係ではなく、「国際」関係なのである。しかし高麗・朝鮮とは異なる関係でもある。これも国境という概念では内か外かの二者択一になってしまう。(この段落は書いてしまってから、権門体制論とはあまり関係がない、ということに気付いたが、せっかく書いてしまったので、無理やり残してしまった部分。ちょっぴり反省している)
黒田自身は1976年に「国家史研究についての反省」の中で次のように述べている。

ここで考えてみたいのは、東アジアにおける朝鮮・中国・琉球などとのどのような緊張関係に上に日本中世国家が存立していたのかということである。それは、東国・蝦夷地など東方の辺境対策問題とともに考察されることによってはじめて、空間的・領域的な中世国家像への視角として生きてくると思われる。(『黒田俊雄著作集 第一巻 権門体制論』256ページ)

黒田自身はそれについて深めることはなく、10年後の「封建王国」論における「当然国境をもつ」という言葉に行き着くのである。日本列島上に「日本」という国家が領域的に一貫して一つ存在する、という見方が孕む問題は大きいと考えている。
「国家」という概念が極めてフラットなために、結果として「国家論」が非常に錯綜しているのだと考えている。その点について少し考えてみたい。