権門体制論と天皇制

権門体制論それ自体は天皇を【国王】とすることは必ずしも前提としない。だからこそ権門体制論の枠内で天皇ではなく治天を【国王】とする議論も可能なのである。しかし黒田俊雄は断固として天皇を日本中世国家の【国王】とすることを譲らない。
これについて次のような意見がある(「唯物史観 | Japanese Medieval History and Literature | 5488」)。

唯物史観を信奉するのに、なぜ権門体制論なの?
権門体制論は、天皇の地位を必要以上に高く評価しているじゃないか。
それは、唯物史観を奉じる研究者が「従三位」とかの位階を授けられてる
(そういう人は少なくないそうです)のと同じくらい、ヘンじゃないか。

唯物史観を信奉するのに、権門体制論」は「自分の思想と研究とが同一のベクトルをもつべきだ」という意見と対立するのだろうか。私はそうは思わない。権門体制論は唯物史観に立脚して組み立てられていることは見た通りである。黒田俊雄が史的唯物論、さらに言えばマルクス・レーニン主義に立脚し、反天皇制の旗幟を鮮明にしていたことと、黒田が権門体制論において天皇の国制上の地位を高く評価したことは、「自分の思想と研究とが同一のベクトルをもつべき」と批判されるべき問題ではない。むしろ黒田がマルクス・レーニン主義者であり、反天皇制論者であったことと、権門体制論において天皇を【国王】と位置づけたことは、黒田の「思想と研究とが同一のベクトルをも」っていたことの好例ですらある。大黒屋氏の「唯物史観を信奉するのに、なぜ権門体制論なの?」という疑問に対して「自分の思想と研究とが同一のベクトルをもつべきだ、と主張するところがもっともいかん」「それはそれ、これはこれであるべきで、そこがなっとらん」と「関西の著名な研究者」が答えたとしたら、「関西の著名な研究者」の批判も黒田俊雄の歴史学に対しての理解がずれている。黒田の権門体制論は「自分の思想と研究とが同一のベクトルをもつ」ことの典型例である。むしろ黒田の研究の問題点は「自分の思想と研究とが同一のベクトルをもつ」ことにあった、とすらいえるのである。
天皇制をめぐる運動についていささかでも理解があれば、上のような疑問は出てくるはずはない。黒田は天皇制打倒のための闘争を挑むからこそ天皇を【国王】とするのである。黒田農園の人々が黒田の天皇制への戦いにどのようなスタンスをとっているのかは私は知らない。しかし黒田俊雄の著作を読んでいて感じるのは、天皇制打倒への強い意欲である。
黒田に「詐術としての天皇制論」という文章がある。ここで黒田は清水幾多郎、渡部昇一を取り上げ、「こういう詐術を伴うことが、歴史上にもしばしばみられた天皇制自体の性格なのであるが」と批判している。この文章の結論となる部分を引用しておこう。

戦後今日までの良心的歴史学者天皇制解明の重点は、天皇の神性の否定や、社会構成史の観点からの天皇権力の断絶の説明であった。しかしこれだけでは彼等の詐術を断ち切ることはできないだろう。歴史上の天皇は、ときに生身の実権者であり、ときに権力編成の頂点であり、ときに精神的呪縛の装置であった。そしてその三つがいつの時代にも備わっていたのではないことは明らかで、こうした諸側面を適宜入れ替え組み合わせてきらところに天皇制を操作してきた権力の真実の歴史があった。
ところが、いま詐術師たちは、自分ではこれを使い分けながら、あえて混同させて人々を欺いている。そのからくりを作動させないためには、むしろ天皇制の「存続」の根拠をこそ具体的に分析して、知性の明白な光にさらす必要があるのでなかろうか。(『黒田俊雄著作集 第一巻334〜335ページ)

黒田がその思想闘争の相手としていたのは象徴天皇制である。黒田は「天皇制研究の新しい課題」次のように現状を分析する。

かつてのままの神秘主義的な皇国史観天皇崇拝がひろく復活することは今日の国民の意識からみて考え難いことであり、対米従属下では超国家主義国粋主義が敗戦前のような形で主流となることも考えられない。それよりも多方面での「象徴」の活用によって「国民統合」をつくり上げ、国家主義民族主義を宣伝し、政治上、歴史上の諸矛盾を隠蔽し、「国家利益」(彼等はnatinal interestをいうにも国民的利益でなく国家利益と訳する)を強調して過去および現在、将来の帝国主義的侵略と軍国主義を正当化する地ならしにすることが、基調であろうとおもう。「象徴」が実質的なものになりうる可能性を、将来はこのようにして現実化しようとしているのである。(同290ページ)

その上で中世の天皇制をめぐる議論について次のようにいう。

進歩的歴史学の側が、反動史学の側の「天皇統治が本来のあるべき姿であるにかかわらず、幕府政治によってそれが損なわれた」という主張を打破する意図から、中世、近世の国王は客観的には将軍であって、天皇は本質的には観念的・宗教的権威に格下げされ、西欧におけるローマ教皇にも比すべき存在になったと説明した。たしかに封建社会における天応にもそのような要素がいくぶんでもあったのは事実であるが、しかし、このままでは天皇ないし天皇制は権力支配者としては免責されるだけである。しかし、日本では西欧とちがって貴族のほかにもう一つ別に大寺社や教団の宗教勢力があり、天皇は権威としての側面にかぎってもつねに政治的権威であったはずである。そのことを見落とすならば、粗野で戦乱の打ち続いた武家政治の時代にはつねに人民が天皇の徳に期待したというたぐいの歴史の歪曲の再生を許すことにもなろう。(同292ページ)

また天皇が存続したことについて次のようにいう。

このさいとくに注意されるのは、封建時代の天皇である。さきにも述べたように、戦後、学問的観点にたって天皇制の歴史を把握しようとした人々は、封建時代においては将軍こそが客観的に国王的地位にあったのであって天皇は古代的遺制にすぎず、ただ観念的権威として存続したにすぎないと説明した。ところが、現実には、中世でも天皇は政治的機能ないし権力を多少とも保持しており、しかも(上述の観点からは当然ながら)近世にそれが質的に変化したとは明確に指摘されていないままに、それが明治維新君主制として「復活」したようにみえることになる。そこで「万世一系」を旧態然として盲信しつづける人々は論外としても、多くの「合理的」な人々が、この「将軍=国王」説を基本的に認めながらそれゆえにかえって「天皇制の存続」を特殊非合理的事実として把握し、権力(将軍)と区別された政治的権威であったことに天皇の超時代的本質をもとめ、あるいは日本の国王の非権力的伝統を示すものと解釈して、天皇の「象徴」的性格をその意味で是認するのである。天皇の権威をそのように超時代的にとらえるのは家曲は「万世一系」的天皇観と同じ見方に陥ることになるといえるが、とりわけ注意されるのは、天皇を日本の超歴史的運命(宿命)としてうけとめ、封建国家の政治権力と被支配人民との対立、闘争のなかに具体的・構造的に位置づける発想を欠いてしまう点である。(同293ページ)

黒田によれば、天皇を【国王】とみなすことによって、天皇制が不可避的にもつ権力性を白日の下に曝し、「象徴」という形でその権力性が隠蔽されることを避けるために、天皇は【国王】でなければならなかったのである。
こと黒田に関する限り、「唯物史観を信奉するのに、なぜ権門体制論なの?」という疑問は成り立たない。反天皇制の立場に立ち、歴史学を武器にして現在目の前にある天皇制権力と闘争するために、天皇は【国王】でなければならなかったのである。
天皇の地位を必要以上に高く評価」することと、反天皇制の立場とは矛盾しない。むしろ黒田は反天皇制の立場に立つがゆえに「天皇の地位を必要以上に高く評価」したのである。黒田の所論で批判されるところがあるとすれば、むしろその点であって、「唯物史観を信奉するのに、なぜ権門体制論なの?」という疑問はいささか的外れであるように思える。むしろ「黒田は反天皇制というゾルレンに捕らわれてしまって、天皇の地位を必要以上に高く評価してしまった」という問題点を提示すべきだったのではないか。
私が学生の頃は「どうすれば天皇制を克服できるか」という議論が普通になされていて、天皇の権力性を強調することが天皇制の克服のための必要な作業だというのは私の周囲では自明だったのだが、やはりそのような環境は特殊なのかな、と思わされた。そう言えば私の大学院時代の話だが、ゼミでの飲み会で担当教授は「僕らの頃はどうすれば革命を起こせるか、とか、ぼくもどうすれば差別をなくすことができるのか、ということを考えて歴史学を研究していたんですが、今の学生は違うんですねぇ」と嘆息されたことがあった。これに対しては私も腹の底では「いや、違うだろJK」とは思ったが(笑)。やはり特殊だ。