権門体制論と国家論

権門体制論には国家論がない、と言えば、意外な感じもするだろうが、私は権門体制論の問題点として国家論の不在を主張している。権門体制論を読んでいて感じるのは、「国家とは何か」という国家論がない。「日本の中世国家はどんなものか」という議論に終始していて、「国家とは何か」は問われないのである。
例えば黒田は『日本中世の国家と宗教』の「あとがき」において権門体制論への批判に触れた箇所で、石井進の「中世に統一的な国家を想定できるか」という批判に対し、次のように答えている。

ヨーロッパの歴史学をはじめ学説史上でも封建国家についてつねにそのような疑問が提出されてきたにかかわらず、なお日本中世については具体的に「国家」があった事実をここで指摘したいのだというほかはない。(同書554ページ)

その「国家」とは何だろうか。全く明確ではない。だからこそ本郷和人氏から鋭い批判が出されるのである。

中世にもまあ常識的に考えてなんらか国家はあったろう。国家があったとすれば、その王は天皇だろう、と黒田は述べる。本当に国家と呼べる機構はあったか、王は天皇でよいのか、という一歩踏み込んだ考察はされない。

ここに黒田の、そして権門体制論全体に通有する問題がある、と私も本郷氏のこの指摘に全面的に同意する。黒田の「なんらか国家はあったろう」という認識は、増田四郎の国家論の整理を受けて出された「封建王国」概念によく顕れている。
再掲する。「それ(封建王国)は国王を頂点とする政治的形成体であり、領域のなかの土地と人民を支配し封建法(広い意味での)によって統治し、当然国境をもつ」(『黒田俊雄著作集 第一巻 権門体制論』266ページ)。
前に「当然国境をもつ」という部分を問題視した。「当然」というのが、まさに「常識的に考えて」というのと同じで、「一歩踏み込んだ考察はされない」ことを如実に表している。また「国王を頂点とする政治的形成体」とあるが、その「国王」の実体が「王は天皇でよいのか、という一歩踏み込んだ考察はされない」まま、天皇に措定される。usataro氏のブコメ「政治権力を有した天皇や確固たる国家機構の存在を措定することに現状で果たして意味があるのかがポイント」もまさにその通りである。
ここでは「国王を頂点とする政治的形成体であり、領域のなかの土地と人民を支配」する、という「封建王国」概念を解体し、その問題点を考察したい。
黒田がかなり忠実なマルクス・レーニン主義の立場に依拠していたことは、黒田が権門体制論を展開する際にレーニンの国家論に依拠していることからも明らかである。黒田は「中世国家論の課題」において次のように述べる。

私見では(石母田領主制論の)最も根本的な問題は、国家を具体的・対象的に認識する方法を提示していないことにあったとおもう。(中略)
レーニンが、エンゲルスをうけて明確にのべた言葉は、このさいもっとも重要である。

エンゲルスは、国家と名づけられる「権力」すなわち、社会から発生しながら、社会のうえに立ち、ますます社会から自己を疎外しつつある権力−この権力の概念を展開している。この権力は主としてなんであるか?それは刑務所その他を管理しつつある武装した人間の特殊部隊である。(『国家と革命』)

ここでは国家は、あくまでも具体的・対象的に規定されている。
私は前稿(「日本中世の国家と天皇」)において、右のような意味で、「中世」国家の具体的内容として“権力機構” を主要な対象とした。(『黒田俊雄著作集 第一巻』221ページ)

もちろんレーニンの国家論に依拠すること自体が問題であるわけではない。黒田は次のように指摘する。

さきに引用したレーニンの文章にもあるように、国家はただで強力装置として現われるのでなく、必ず超階級的な「公的」秩序、あるいは「共同体」「神の摂理」等々として現われる(中略)権力機構を生きた装置として(政治史的にも制度史的にも)明確にすべきだというのが、私の主張である。(同著222〜223ページ)

「権力機構を生きた装置として明確にすべき」という課題に取り組まれていれば、「張り子の虎」と批判されることもなかったはずだ。しかし現状は権力機構を生きた装置として明確にすべき」という課題が全くと言っていいほど手が付けられていないからこそ、「天皇−朝廷−−公家の実体解明の試みは、実は、全くなされていない。(中略)張り子の虎と言われても仕方がないでしょう(本郷氏『天皇の思想』267ページ)」と批判されるのである。これは黒田自身よりも、黒田の権門体制論を継承した研究者により責任があるだろうと思う。
黒田がレーニンに依拠していたことは、黒田が一国革命論(実際はスターリンによって定式化されたものであって、当初はレーニンも世界革命論に立っていたが、その立場はトロツキーに受け継がれ、黒田の立場から見てトロツキズムに傾斜することはありえない)や一国一前衛党論を暗黙のうちに影響されていたことを想定させる。だからこそ黒田は1980年代の地域史の隆盛を目の前にしてもなお「当然国境をもつ」という、一国史観を堅持せざるをえなかったのではないだろうか。
さらに言えば黒田は「国家」=「社会から発生しながら、社会のうえに立ち、ますます社会から自己を疎外しつつある権力」と位置づける、いわゆる「国家=第三権力論」を展開するに当たって、エンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』(以下『起源』)から直接引用するのではなく、レーニンを経由して引用している。『起源』自体は1954年に大月書店の国民文庫から翻訳が出されているから、黒田は当然読んでいるはずである。しかし『起源』よりもレーニンの『国家と革命』から引用した方が、黒田にとっては自然だったのだろう。
追記
今日帰宅したら『日本史研究』574号が入っていた。574号は「特集 戦後歴史学の著作を読む」という題で、黒田俊雄の『日本中世の国家と宗教』が細川涼一氏によって取り上げられていた。そこで細川氏今谷明氏による権門体制論批判を取り上げている。
ちなみに他に取り上げられているのは以下の通り。
西本昌弘「岸俊男『日本古代宮都の研究』再読、古市晃「鬼頭清明律令国家と農民』、上川通夫「河音能平『中世封建制成立史論』の批判的継承」、細川涼一「黒田俊雄『日本中世の国家と宗教』、山崎善弘「深谷克己『百姓成立』を読んで考える−「百姓成立」論の位置と可能性−」、奥村弘安丸良夫『文明化の経験−近代転換期の日本−』を戦後歴史学の書として読む」