承久の乱の原因1−藤原頼経擁立をめぐる相克−

承久の乱によって鎌倉幕府の朝廷に対する優位が決定した。幕府は天皇をその位から引きずり下ろし、乱の首謀者となった治天の君流罪にした。そして次の天皇は後鳥羽の子孫ではなく、後鳥羽の兄の行助入道親王の子孫から出すことにした。天皇の人事権は治天から幕府に移行したのである。人事権を誰が掌握するか、というのは、権力の所在を示す一つの、そして大きな指標である。これ以降、天皇の人事権は幕府が掌握することになる。しかもこの時幕府は天皇に在位しないまま出家していた行助入道親王太上法皇を名乗らせた上で治天に据え、院政を敷かせた。これは明らかに幕府による幕府のための院政である。これを院号によって後高倉院政という。その孫の四条天皇が後継者のないまま死去した時には、後鳥羽の子孫から出すことを了承したものの、摂関の九条道家の推す順徳上皇の皇子ではなく、倒幕に関わっていない土御門上皇の皇子を天皇に据えた。承久の乱によって「国王」のかなりの権限が幕府に移行していることが理解できる。承久の乱以前と承久の乱以後では同じ「権門体制」として把握することは、かなりの無理がある、と私は考える。
承久の乱の原因であるが、『吾妻鏡』によると後鳥羽が摂津国の長江・倉橋両荘の地頭職を停止するように要求してきたが、それを北条義時が突っぱねたために後鳥羽が逆ギレした、ということであるが、永井晋氏はそれを北条氏の喧伝とする(『鎌倉源氏三代記』206ページ)。実朝の弔問に訪れた藤原忠綱が実朝死去直後に要求してきたものであり、永井氏は弔問の返礼としては当然のものという意識が後鳥羽にはあっただろうと推測する。本来どちらが荘園の経営を乱しているのかが問題であるはずなのだが、一方の当事者が伊賀局(白拍子亀菊)であったことから、御家人に対する喧伝材料として使われ、「問題の本質がすり替えられていると考えないと、承久の乱にいたる政治過程は正しく理解できない」としている。永井氏はその本質を「協調時代の終わり」と考えていて、私もその見解に従うものであるが、九条家の位置付けについてはいささか見解を異にする。九条道家は必ずしも後鳥羽院政に批判的な人物ではない、と考えている。したがって九条道家の子の頼経を将軍に迎えたこと、それ自体が後鳥羽院政との協調関係を放棄することを意味してはいないだろうと考える。
実朝暗殺後から承久の乱にいたる出来事を追ってみよう。
建保7(1219)年正月27日夜に実朝が暗殺され、その日のうちに実行犯の公暁三浦義村によって討たれている。そして公暁の関係者の捕縛が始まっている。翌日早朝に朝廷に使者が派遣され、2月9日に帰って来た。13日には二階堂行光が上洛し、後鳥羽の皇子の六条宮か冷泉宮のどちらかを将軍として東下させることを求めた。これは実朝の存命中から北条政子と卿二位局(後鳥羽の乳母)との間で話がついていたことのようである。翌日には伊賀光季を京都守護として上洛させた。2月15日には実朝の従弟にあたる阿野時元が挙兵、23日には討滅している。29日には大江親広が京都守護として上洛に向かった。
閏2月12日、行光の使者が鎌倉について、後鳥羽が皇子の東下を渋っている、という報告が入る。閏2月29日には中宮権亮一条信能が政子のもとに暇乞いに来た。理由は「叡慮頗不快、剩去十九日解官之由、及御沙汰」ということのようで、前月の20日に実朝の祈祷をしていた陰陽師が所職停止されたことと併せて後鳥羽側にすでに鎌倉に対する不信感が現われている、と考えられよう。一条信能は承久の乱では後鳥羽側の中心的な存在として役割を果たしている。
3月9日藤原忠綱が弔問の使者として訪れ、併せて摂津国長江・倉橋両荘の地頭職改替の要求を持ち込む。15日には北条時房が1000騎の軍勢を率いて上皇の要求の拒否と、将軍の下向を要請するために上洛した。
実はここから三ヶ月『吾妻鏡』は欠けている。そして7月19日になって藤原頼経が鎌倉に到着した記事から再開される。6月3日に後鳥羽の許可がおり、25日に六波羅に入った後、出発した、という。そのごたごたの間の7月13日に源頼茂が後鳥羽によって誅殺される。
永井氏は「この三ヶ月の間に、後鳥羽院政は鎌倉幕府との協調路線を放棄し」と主張し、空白のあとに起こった事件である頼茂誅殺事件については、時房の軍勢をみて武力を組織しようとした時に邪魔になる摂津源氏の棟梁の頼茂を消した、と考えている。九条家から将軍を迎えることが後鳥羽院政と鎌倉幕府との協調関係を放棄することにつながった、ということの結末として頼茂誅殺事件が位置付けられている。
私はそこにいささか疑問を感じている。九条家後鳥羽院政は対抗関係にあった、とは考えづらい。後鳥羽の孫の仲恭天皇道家が養っていた。もし道家と後鳥羽が対抗関係にあれば、後鳥羽は仲恭を即位させなかったであろう。さらに道家四条天皇死去後には鎌倉幕府の意向に背いてまでも順徳皇子の即位にこだわった。そのことを考えると、頼茂誅殺の背景と、後鳥羽がいつ倒幕を、なぜ考えるようになったのか、というのは今一つ考えなければならない問題である。その場合に念頭に置かなければならないのは、後鳥羽は皇子を将軍にすることは拒否したものの、藤原頼経を将軍後継者にすることは許していることである。つまり頼経は幕府による強行擁立ではなく、後鳥羽が認定した幕府の後継者であったことである。つまり後鳥羽は頼経を将軍後継者として認定した段階では幕府との対決姿勢には動いていない、ということである。頼茂が誅殺された理由について『愚管抄』は「我将軍ニナラント思タリト云コトアラハレテ」としているが、鎌倉のために後鳥羽が兵を動かすのは不自然とされている。しかしこの段階でまだ後鳥羽が鎌倉との協調を諦めていないとすれば、むしろこの事件は後鳥羽が源氏の関係者を処分することで、北条氏に恩を売った、と考えられないこともないであろう。摂津源氏の血を引く頼茂は後鳥羽よりも、源氏将軍を否定した北条氏にとって邪魔であったはずだ。
もう少し頼茂について考えてみたい。