中世における天皇制の危機

中世における天皇制の危機として第一にあげられるのは承久の乱である。
朝廷の追討官宣旨を出した相手が京都にせめこんできて朝廷の軍が壊滅する、ということは、なかったことになっていた。しかし鎌倉幕府の大軍は容赦なく京都を蹂躙し、天皇の権威をたたき壊した。
天皇は廃位され、九条道家に預けられることとなった。幼児だったから責任を問われなかったのであろう。責任を問われたのは成人に達していた皇族であった。治天の後鳥羽上皇隠岐へ、後鳥羽とともに討幕に積極的だった順徳は佐渡へそれぞれ流罪となった。父の後鳥羽と疎遠になったため、討幕に参加していなかった土御門上皇は自らの意思で土佐に移動することとなった。他にも幕府の将軍に予定されていた後鳥羽の皇子も但馬などに流罪となった。
鎌倉幕府を主導する北条義時は、この処分を自身で決定しながらも、天皇を廃止しようとも、自らが天皇になろうともしなかった。義時は後鳥羽の兄で仏門に入っていた守覚法親王行助入道親王(俗名守貞親王−円忠氏の御教示により訂正)を治天に据え(後高倉院)、皇子の後堀河天皇を即位させた。
なぜ義時は天皇制を廃止しようとしなかったのか。やろうと思えば不可能ではなかったはずだ。自ら治天とその周辺を流罪に処す実力があり、それを周囲が受け入れる現実があれば、天皇制など本来不要である、かのように見える。なぜ義時は天皇にこだわったのか。
そのヒントは平氏政権にある。平氏政権の公達は、朝廷の儀式に参加していない。精緻に組み上げられた朝廷の文化資本に太刀打ちできるだけの蓄積が平氏政権にはなかった。だから平清盛は自身の息の掛かった廷臣に朝廷を主導させたのである。源頼朝もそのような文化資本の蓄積を有していなかった。頼朝も清盛に引き立てられた近衛家に対抗して九条家を守り立てた。天皇を頂点とする精緻に組み上げられた血と文化の体系をつぶして新たな体系をつくりあげるよりは、その体系を自らに都合よく改変するのが都合がよかったのだ。
義時は自らに都合のよい王権をつくりあげ、自らに都合の悪い王権は葬り去ったのである。この動きは北条泰時に至ってさらに強化される。