現代の価値観で過去を判断すること

「現代の価値観を過去に持ち込むな」という議論がある。私は思う。そんなに悪いことか?と。
私は本郷和人氏の次の指摘に全面的に従いたい。

次に、政治や権力を通じて歴史的人間を考えようとすると、史料を読むにあたり何に依拠すべきなのかについて、実は確たる定めがない。
a、中世人も現代人も、同じように思考し、希求し、行動するだろう。たとえば無駄に死ぬのは好ましくないし、できれば豊かに、せめて安楽に日々を送りたいだろう。この意味で、今を生きる私たちの感覚を基準に、中世の事象を解釈することは有効である。
b、いや、そうはいっても中世人と現代人はやはり異なるのだ。両者の感覚が同一であることを前提として安易に議論を進めると、時として思わぬ陥穽にはまりこむ。罪と罰の意識が相当に相違することは研究者のあいだでは共通の認識になっているし、「所有」の概念が未成熟だから、職の体系ができるのである。
 aもbも決して間違いではない。ただし、いかなる時にはaで考察を推し進め、いかなる場合にbに留意すべきなのか。
法則があるわけではないし、そうした方法論の定立が俎上に載せられることは期待できない。大事なのは、現状ではまことに茫漠とした指摘にとどまらざるを得ないが、個々の研究者のバランス感覚であるとかセンスのようなものかもしれない。

「個々の研究者のバランス感覚であるとかセンス」が非常に大事であるという指摘は大事である。そこを間違うとそれもまた大いなるトンデモにならざるを得ない。
第二次世界大戦を現在の価値観で評価するな、という意見ではホロコーストも原爆投下も「強請たかり」のネタとしかとらえられないトンデモな見解を正当化することになろう。まさに「バランス感覚であるとかセンス」の問題であると思う。