矢不来館と茂別館の関係について

実地見学をし、研究者の方々にお話をうかがったところ、茂別館と矢不来館には密接な関係が認められること、矢不来館は上ノ国の勝山館をしのぐ規模だが、茂別館はさらに大きいと考えられる、ということである。
とすれば矢不来館の主は誰か、ということになるが、文献史料(新羅之記録)との整合性を重視するならば、茂別には下国家政がいたわけだから、家政と近い関係者がいたはずになる。家政の兄の政季は北海道に二年いたのみで檜山に向かっているので、当時北海道にいた下国氏は家政のほかには下国氏嫡流の下国定季しかいないことになる。定季は松前大館の館主であるはずで、矢不来にいた、となると文献史料との齟齬が出てくる。
定季と家政の関係だが、『新羅之記録』の記述通り、15世紀半ばからの戦乱がアイヌ対和人の図式で語りうるならば、両者は連携していた、ということになる。しかし後潟安東氏の政季と家政が「下国」を名乗って北海道にやってきた、とすれば、下国本流の定季との対立が生じた可能性も否定できない。政季・家政の北海道入りと同時に定季と政季・家政の間の緊張が高まり、コシャマイン戦争と呼ばれる戦乱の引き金になった、とも考えられなくはない。
矢不来館から室町幕府との関係をうかがわせる遺物が出土していることについてだが、基本的に室町幕府との窓口になりえたのは定季であると考えてきた。というのは、下国康季が足利義持から御内書をもらったり、足利義教に対して南部氏との和睦の仲介を依頼したり、と室町幕府と密接な関係を保持してきたのは、康季であり、康季の血を引くのは定季であって、安東氏庶流の後潟家から下国家を僭称した政季・家政ではあり得ない、と考えたからである。ただ当時の室町幕府の実態を考えると、室町幕府が一つしかない、というのがそもそも成り立たないかもしれない。少なくとも安東氏との窓口を務めてきたと考えられる畠山氏は畠山満家の嫡子で義教と対立した畠山持国の嫡子畠山義就と、畠山満家庶子で、義教に登用された持富の子の政長に分裂していた。政季や家政の「政」が政長との関係を示すとすれば、定季は義就と結びついたと考えられ、満家の正式な後継者と考えられる義就に康季の正式な後継者である定季が接近するのは当然で、義就−定季ラインに対抗して政長−政季・家政ラインが形成された、とすれば、それまで存在しなかった室町幕府後潟安東氏出身の政季・家政との関係が新たに築かれた、と考えるのもあながち間違いではあるまい。そう考えれば家政の影響下にあった矢不来館に室町将軍家との密接な関係を示す遺物が大量に出てくることも説明がつく。
問題は松前大館と茂別館だが、これらは現状では発掘調査はなされていないので、現時点では断定的なことはいえない。
追記
康季と盛季を間違えて表記していたOTL。直しました。
宗季(季久)−師季(高季)−法季−盛季−康季−義季
ちなみに定季は義季の弟。
政季・家政は盛季の弟の重季の孫。